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藤沢育成会 理事長日記 | 最新の日記
自己決定支援に必要な"勘案"

 インクルージョンにふさわしい支援は"相手に寄り添う"と考える。"寄り添う"と言うとその人の思い通りにしてあげることと誤解する。知的障害者は自己表現が苦手だと誰もが知っている。私たちが自己表現しがたい時のもどかしさとは全然違う。なぜなら、少なくても私たちは表現する手段を知っているから。不十分なら十分になる方法も知っている。だから出来ないのではなく"しない"ということ。努力をしても出来にくい人と出来る人との違いは、想像するよりはるかに違う。

 視覚障害者が、見えないことによる不利益や表現しきれないことと、私たちが見えることをどう表現したら判ってもらえるかと腐心することが違うのは分るが、知的障害者の自己表現が苦手ということを同じだと考えるのは違うと思う。だから、それを棚上げする行為が受け入れられない。支援を仕事とする人の中に自分の弱みをさらけ出し"おんなじだね..."と安堵する人がいるように思う。それは決定的に違うことなのに、同じにしちゃうことで安堵感を得ようとする人に義憤を感じる。何故なら障害者を盾にして自分の弱みを守ろうとしているからだ。

 プロの"支援"は何が違うか...と考えてきた。この仕事を選んで良かったと思いたいから"支援のプロ"としてのプライドを持ちたい。判ったふりをして教科書的発言をするような"プロになったふり"はしたくない。だから、お隣さんの善良な人とは違った"支援"を求め続けたい。そんな時、考え付くのは行為としての支援は変わらないが、行為に至るプロセスに注目すれば良い...と考えてみる。支援を必要とする人は、相手によって手伝って欲しいことが変わるはずがないから、支援と言う行為は変わらない。変わるのは人と人=支援者と利用者の相関関係が反応しているからであって、それ以上でもそれ以下でもない。だから行為に至るまでのプロセスで、求める支援を"斟酌"することが大事。"斟酌"は推し量ることと考えれば自己表現が苦手な人の本当の考えを斟酌することになる。だからどうしてもその人を理解しなければ出来ないから、ケースヒストリーを知る。パーソナリティーを知る。だからソーシャルワーク技法を駆使する。

ソーシャルワークでは評価はしない。だがアセスメント(評価)が求められる。それが"勘案"する必要性。その人の様子を"勘案"出来る支援は"斟酌"していることになる。それが支援を受ける人が受け止めやすい支援。だから、支援はとても変化しやすくデリケート。判っているようだが判らないまま障害特性に添った支援をするとうまくいくことがあるが、次にやろうとするとうまくいかず混乱する。それはたまたま出来ただけで本当に相手を勘案出来ていないだけ。だから、プロならその人をしっかりと理解してから支援すべきだ。これが偶然、出会った場ですぐにプロの力を発揮出来ない原因だが、そのことが一層プロと思われにくい。やっかいなことだ。だから、インクルーシブな街にするためには長く時間をかけなければ出来ないのだと思う。(2018.10

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「従う快感の怖さ」

 今年は猛暑で年を重ねた身には耐え難かったがようやく秋風を感じほっとした。夏は戦争の話がマスメディアで話題。日曜劇場は『この世界の片隅に』。戦中、呉市郊外の小市民の暮らし。押し寄せる戦争の影が暮らしを脅かす。"戦争は嫌だなぁ~"と思う。今夏災害にあった広島県呉は軍港だったから日常的に戦争の姿がある。いつもだが日本では戦争中のひもじさなど小市民の悲劇を映す。武器もない下級兵士の悲惨な死、敗走時の食糧不足や風土病、特攻隊と呼ぶ自爆。どれも戦争の悲惨さだ。だが、そこに駆り立てた国家、権力者、戦争指導者を視なくてよいか...。悲惨な状態になったのはなぜ...、なぜ戦争に向かったか...など無視していいのか...と。『それでも日本人は「戦争」を選んだ(朝日出版社、加藤陽子著)』は、当時を精度高く読める。注目はこの本が県内の高校生への講義という事。

 新聞に"「従う快感」の怖さ知って"の見出し。"「ハイルタノ」行進 増す声量""やってやった感が出た""排斥の気持ち実感"と。甲南大学田野大輔教授(歴史社会学)のファシズム体験学習の様子。小さな声だった学生が集団行動に高揚し声が大きくなり、他者を排斥する行為に違和感が消える。集団は1人の時とは全く違った感情にいざなう。面白半分が次第にやってやった感になる。"ハイルタノ!"は、"ハイルヒトラー"を主宰する教授名に変えただけ。当時、日本はナチスとイタリアの同盟国だった。戦争の悲惨さを伝えるだけでなく国家の反省を含まないと国際的には認知されない。またもう一つの気がかりは日本が戦争の出来る国に変貌していること。さらに甲南大生が体験した従うことで人間が変わっていく恐怖。従順さは自ら考える力を消し浮遊してしまう。報道では日本人は自ら考え、発言することが苦手だと言われていることも含めて危惧を感じた。そういえばナチスの優性思想は、あの津久井事件の犯人の背景にある。人は優位性を誇示したがる。だから優位性が高い者がどう理解し検証し続けるかが重要。個人で何かをする時と、一体感をもって行う集団行動で、異なった感情が生まれる怖さ。集団とは...と考え込む。

社会福祉施設等を"全制的施設"という。刑務所、寄宿舎制の学校、軍隊など集団で暮す場の総称(『初めて出会う社会福祉』相川書房、西尾祐吾著)。スポーツ界のパワハラ、セクハラ事件も同質。これが障害福祉施設での虐待事件の根幹だ。集団になると思ってもいない行動をするのが人間。だから周辺の人達が客観化する場面を作る言葉かけが大切。それは"呼び戻す力"。でも、もっと大切なのは自分で考えること。考えることを止めると集団行動に簡単になびく。しかも"従う快感!"がある。考えることを止める行為は日常的にも、非日常的な場面でも同様に人間の行動を表す。楽しければいい、嬉しければいいというほど簡単ではない。日常的な場面で実行することが戦争を回避することだし、虐待行為に走らないことだ。(2018.10

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"療育技法"とインクルージョン

支援にもトレンドがある。旧全国愛護協会(現:知的障害者福祉協会)で治療教育専門職養成の通信教育があった。そこで「心練」が紹介されていた。映像で"す!"とか"た!"と障害者に響き渡る声で繰り返す様子を見た。"す!"は"座れ!"、"た!"は"立て!"。解説では、言語理解が難しい人に記号化し短い情報で判りやすくした...と。見た時"社会と隔絶した場所でしか通用しないな..."と思った。その頃、海外からも注目された知的障害児入所施設があった。そこでは生活空間に不必要なものは置かない事が徹底されていた。必ず職員が点検するので歯磨きも洗顔も並んでいた。話題の「母子短期入所事業」があった。他施設と決定的に違ったのが期間。母子共に3か月間施設入所が必要なプログラム。その時"きょうだいたちはどうしているだろう..."と思った。児童相談所にいた頃、その施設に入所希望の親がいた。一方的な話し方で入所は揺らがなかった。入所時に"学校に上がる前の幼児が親と離れて暮らすことが子どもの福祉だとは思えない..."と話すと"そんなことをいう君は知的障害を知らない!"と断じられた。社会生活と違った価値観で出来ているのが入所施設だ...と思った。

 かつて勤務した施設では、生活空間にカギが必須だった。カギ束で1年間勤務するとズボンのポケットに穴が開いた。その時"限られた空間だが安全・安心を担保するためカギも必要だ"と教えられた。新米に抗弁できる訳もなく善意の解釈に納得したが、その後、誰もが拘束された空間で暮らしたい訳がない...と考えた。だがすべてのカギを外したら、彼らの安全・安心を担保するには、当時の人員配置や生活空間では保てないことも判っていた。また、当時の施設内トイレは介助者が立つ空間を確保するため扉が外されていた。ボランティアに聞かれて案内しとても恥ずかしい思いをした。ことほど左様に知的障害児入所施設の生活空間は、世間とは遊離していた。

 この頃"ノーマライゼーション"が上陸した。暫くしてTEACCHプログラムが佐々木正美氏によって持ち込まれた。Tはトリートメント、Eはエデュケーション、Aはオーティスティック、Cはコミュニケーションハンディキャップ、CHはチルドレン。つまり「自閉症やコミュニケーションにハンディキャップのある子どもの治療と教育」...となる。TEACCHは、治療と教育のプログラムなら、戦後ひばりヶ丘学園を創設した管修が提唱したのは"治療教育"。治療と教育を同時進行させることは同じ。ところがTEACCHが違うのは①ライフステージに応じた療育、②家族を療育のパートナーに、③地域を協力者にということ。初めて一生涯の保障と家族の協働、そして地域での暮らしが視界に入った療育技法に出会った。つまり"インクルージョン"。だから"インクルージョン藤沢"が意味を持つ。ゆっくりだが、じっくり、しっかり変化している。"療育"のトレンドは確実に"地域で暮らす"ことに意味を持たなければならない。(2018.9

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ドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」

7月、「健康で文化的な最低限度の生活」と題したTVドラマがスタートした。憲法論議は第9条が話題になるが、これは第25条"生存権"。第1項に「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあり、そのままネーミングしたようだ。第二次世界大戦終了後、世界は国連を舞台に様々な"権利宣言""権利条約"を締約した。自由権、平等権と共に人間の普遍の権利"社会権"。それが憲法第25条。こんなお堅いフレーズを使うドラマはどんなものなのかと思い見た。

 第1話は、父親から継承した会社を倒産させた男が世をはかなんで生きている時に、法テラスで借金の"過払い"が判り、払戻金が生じ生活保護から脱する話。めでたし、めでたしのドラマから始まった。第2話は、寝たきりの父、高校生の兄妹がいる母親の家族。必死で暮すが兄のアルバイトが発覚、返納金が生じた。生活保護には"補足性の原理"がある。生活保護は"世帯"が単位。この場合は4人で世帯認定。世帯の誰かが得た収入は、原則生活費とみなされる。そうしないと収入が+αになってしまう。それは働いている人より生活費が多くなる可能性があるので、世帯全員の収入を引いた金額が生活保護費とされる。収入は自己申告するのだが、申告漏れは"不正受給"とされ返さなければならない。生活保護費とは最低限度の生活保障。それは食うに困らない程度の暮らし。当然の理屈だが、兄は"貧乏人の子どもは夢見ちゃいけねぇってことかよ!"と怒りバイトで買ったエレキギターを叩き壊した。

 一方、生活保護担当SWは自立支援を求められている。だから、兄の夢を否定せず、そのエネルギーを支え応援するのが仕事だ。だが、不正受給を摘発する業務もある。つまりSWは"正"と"負"を1人で任されている。これは児童相談所のSW=児童福祉司も同じ。虐待する親からの分離も、親子再統合の支援プログラムも担う。しかし、多くが公務員試験の合格者が配属されたに過ぎない素人。ドラマでも採用初日に配属先「生活課」に赴任。生活保護の根幹など知る間もなく100件近いケースを担当し、数か月後には不正受給を説明する。制度を熟知出来なければ判るはずがないが、ドラマでは判ったように振る舞い失敗して問題を複雑化させた。

 役所経験が長い大学教員と話していたら、公務員の福祉職採用を非難した。何故なら専門職採用では上席者になれず責任ある対応が難しい...と。だが、不正受給と自立支援は裏腹な関係。子ども虐待の親子再統合は瞬間的な激情も視野に入れ人間性の機微が重要な要素。全くSWを知らない新人公務員が出来るのか...。しかも社会的成熟が難しい現代の若者が...。社会福祉は暮らしの支援だからドラマになる要素はふんだんにある。ドラマが「健康で文化的な最低限度の生活」をどこまで的確に捉えるか見続ける。そして、SW≒支援者≒社会福祉従事者の専門性の表し方を見ている。それが日本の社会福祉領域への理解度、認知度だから。(2018.9

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"答えではなく、応えるために"

インクルージョンは考えれば考えるほど答えが判らなくなり深みにはまる。それは人と人の相関関係だからたくさん想定できる。『ケアの本質(ゆみる出版、メイヤロフ著)』を読むと"ケアとは相関関係"が印象的。だからたくさんの"答え"ではなく、その人にどう"応え"るかではないか。障害者支援では"答え"ではなく"応え"を求めていると考えると判りやすい。その人との関係でどう"応じる"か、どこまで"応じられる"かである。

 ケアマネジメントは"アセスメント"を重視するが、ケアマネジメントが一般的になる前は"インテーク""ニーズ"重視した。アセスメントを"評価"と訳すが、そのイメージは、テスト結果の良し悪しなどの"評価"が一般的。だが、アセスメントを"査定"と訳してみる。"査定"は、事前に価値を判断すること。ソーシャルワークの基本、バイスティックの7原則に"非審判的態度"がある。決して利用者の行為や状態を善悪で判断しない事。つまりアセスメント=評価は、善悪や良し悪しではなく、相手の様子や状態を理解する事。また、ソーシャルワーカーがサービス対象者の理解に不可欠なのが"ニーズ"。その人自身が何を求め、どうしたいか...。問題解決を親や職員側の判断ではなく、相手の立場で"必要性"を考え理解しなければならない。自己決定支援と言うが、アセスメントやニーズが判れば"自己決定支援"になる。

 これらはさらに奥が深くアセスメントを行う時に利用者が混乱していたら、自分では整理出来ない...状態。お金が欲しいと言うからお金を渡すのではなく、必要性を吟味し、何をどうやって、どこまで提供するか...、当事者以上に課題を理解し問題解決のプロセスを考える必要がある。利用者支援はこれほど奥深く幅広のテーマが潜んでいる。これを実践するためには、自分の考えではなく社会的な基準に照らし合わせる事。自分なら...ではなく、支援が社会的基準に添っていなければならない。

一方で社会的基準に照合して考えると、あれもこれも出来ない...。これが難問で出来ないものは出来ない...となる。かつて当事者から"僕たちは制度が変わるたびに暮らし方が変わってしまう!"と言われた。犯罪行為でなければやってみたいのだ。迷惑が掛からなければやりたいのだ。でも、サポートが必要な人は、制度が変わるたびに出来たり出来なくなったり...。「僕たちに危険を冒す自由を下さい」と言った人々は、違法行為を言ったのではない。同じように地域で暮らすという事は、これらを丸ごと包摂(インクルージョン)するという事。自己決定支援などと軽々しく言っているが、本当にその人のニーズを把握し、アセスメントを行い、私たちに危険を冒す自由を下さいと言わなければならない環境を承知し、制度と格闘して支援しているかと言えば到底そこには及ばない。これがインクルージョン。安易に、軽はずみにハードルを下げれば利用者にとても失礼だと思っている。(2018.8

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