日記

マイノリティとして考えたら

大学教員時代、毎年ゼミ生を送り出した。ゼミ希望(2年秋ごろ)学生に、必ず文章を書きあげて卒業しようと話した。卒論を書かなかった学生もいるが多くのチャレンジを見た。学生には相当な負担だが、社会人になるため、答えを教わる立場から、作り出す立場になる自覚を促す大切な時間だった。だから求められるだけ個別面談に応じた。毎日のように来る学生の思索が深まる姿は教員冥利に尽きる。ある日"これだと思います!"とボーボワールの本を持参した学生の生き生きした"目"は、しっかり未来を見ていた。

まだ世界が狭い学生の視野が広がればいいと思っていたが、自分まで視界の広がりを感じる時があった。例えば"アンパンマンとバイキンマンの人間関係"。安定した家族像のアンパンマンと上下関係が厳しいバイキンマンの人間関係の比較。漫画から子どもに何を伝えるか...があった。また"マイノリティ再考"の刺激を受けたのが『左利きはなぜ問題か...』。左利きを矯正された学生は、すべてが右利き仕様の社会だとした上で、矯正は子どもの心に傷を残すと指摘。幼児教育専攻学生として書きたい気持ちがあふれていた。

 左利きがなぜ悪いかなどと考える人は少ない。慣習で多数派の右利き仕様の社会を作り上げている。それは障害福祉の"医療モデルから社会モデルへ"に通じる。例えば、電車に乗る時の改札は、すべて右利き使用だから左利きは身体をよじって利用する。はさみはほとんどが右利き。左利き用もあるが高価。命に係わることではないからまあいいじゃないか...ではなく当事者には大問題だ。つまり、社会が創った不便を左利きの人だけ強いられている。その不便は理不尽だ...と問う

ようやく文字が書けるようになった頃は利き腕で書く。箸で食べるようになった幼児は、それが自慢なのに矯正される。自慢が苦痛に変わり深く記憶に残る。だが、それは社会が右利き仕様だから先を案じた親心。これはマイノリティゆえの問題。少数派を追いやって便利な社会を作り出している。

 長く横浜に住んだから「マイノリティ」の問題で、高校時代チマチョゴリの女子高生を切りつけた事件を思い出す。そこに少数派を排斥する感情が重くのしかかる。まさに少数派=マイノリティが社会から排斥される現実。それは最近増えた外国人への違和感も同じだろう。

「マイノリティ」に障害者問題も含まれる。最近、通勤時間より少し遅れて出勤すると多くの障害者が公共交通を使って日中活動の場に通う姿を見る。多くの人が彼らを気にかけることもなくやり過ごす様子は、社会の変化を感じる。これからの課題もまだ多くあるが、かつてよりはるかに良好な距離感を感じる。

問題はマイノリティに違和感を覚える人間の習性。障害者問題から見ると、社会が受け入れ、慣れる時間が必要のようだ。増加する外国人への違和感が変化するには、まだ時間が必要だろう。それが受け入れられる頃には、障害者と言うマイノリティへの違和感もさらに好転すると願いつつ...。(2020‐10②)