日記

しつけ? おしつけ?

最近、書く素材が見つからないと思っていたが、ウイズコロナで"街"を歩かなくなったと気づいた。久し振りに仕事で遅くなり外食と決めレストランに。オーダーすると1人ではすることもなく周囲が目に入る。見ないように本を読むが、声がどうしても聞こえる。電車ではイヤホーンをして聞かないようにするが...。

隣の5人家族が気がかり。座る前から低学年の女の子が泣いていた。母親の罵声が繰り返された。何とも居心地が悪い。すると今度は父親の罵声。父親は母親の繰り返し。いつものようで、他の子たちは素知らぬ顔で食事を選ぶ。それに応じる母親の優しげな声。泣く子がターゲットのうちは罵声を浴びずに済むと子どもたちは知っている。こうなると不快。だが、他人のことゆえ...。でも、食事までまずくなる...。

翌日、妻と買い物へ。それぞれの用事を済ませ待ち合わせた。休日のファミレスは昼食時、子連れ家族で一杯。既に食事中の4人家族が隣。父親が"ビールが来てない!"とウエイトレスに伝えるのを聞き"昼から、酒か..."と思ったが、仲良く食事をする雰囲気。優しげな声で子どもに接する母親。変な話だが、こちらも安心して会話を楽しみ始めた。しかし、しばらくして2人して吹き出してしまった。母親は優しげな声だが、有無を言わさぬ命令口調の繰り返し。指示的で矢継ぎ早の言葉に父親も従う。すると"お父さんありがとう!""○○君、えらかったね!"。母親がレジを済ます間に乳児を連れて玄関に車をまわすよう父親に指示。えっ!さっきビール飲んでいたよね?!いつものようで子どもを抱いた父親は黙って席を立った。母親は"○○?それとも...?"と想像し始めてしまった。

最近、親の"指示的な口調"が気がかり。子どもは母親と相反する行動をとろうとすると制止される。制止は言葉が強い時もやさしい時も子どもの足かせになる。歩ける子どもがベビーカーに乗りベルトをされていると、拘束?それとも何?...と思う。2歳の孫がバギーに乗せようとした母親に"歩く!"と主張。そう!歩きたい。興味のある所に行ってみたい。"危ないから!"とか"ケガする!"と言うが、子どもがどう思っているかを推し量らないととんでもないことを教えてしまう。危なくてもやってみたい、行ってみたい、試してみたい...は考えることの始まり。子どもはそんなことから自分探しをする。しかし、制止されるとそのチャンスをつぶす。実際に触ることが出来た時の喜びは、その先の生きるすべを見つけるチャンスだ。制止が"考えるな!""自発的行動はダメ!"と教えている。大人になれない日本人の大きな要因を見た。

ひるがえって、障害者支援は...。親の意向に配慮すればサービス満足度が高くなると知った社会福祉業界は"利用者さま""ご家族さま"という呪縛にかかっている。安全、安心は、利用者の可能性を奪っていないか...。本当の危険はどこに潜んでいるか...など日々考えているか。育成会ではリスクマネージメントをプロジェクトで検討中だが、この視点を持たなければ、"ケガしなければいい""安全であればいい"の考え方で利用者を拘束しかねない。その境目が"おしつけ!"≒"「お」しつけ"であると自覚したい。(2020‐12②)

コロナ禍の1年、本当にお疲れさまでした!