日記
つきあう
"つきあう"。この言葉から若者は恋人同士(?)のお付き合いを思い出すだろう。カップルの様子は多様で、まだ長く続くかは未知数の時期のようだ。電車で女性にしなだれかかる男を見ると"あ~ぁ、2番目のお母さんを探しているな?!"などと思う。一方、横柄な男にかしづく女性には"DV被害に遭うなよ!?"などと心配する。まだ未来がたくさんある人たちの話しだ。
では、年配者は何と付き合っているかと考え思いつくのが"病"。生活習慣病を患って既に20年弱。この病は治らないので適正な状態を維持することが治療。だからつきあわないわけにはいかない。しかも、老化した身体は意思とは裏腹で元気なつもりでも無理がたたる。これが難しくて、若い頃のイメージが抜けきらずそれを基点に考えがち。無理だと判っていても若い頃のイメージが勝ってしまう。それが失敗のもと。仕方なく"つきあう"しかないのだが、いつも優等生ではいられない。人はわかっていてもやめられないもの...、理性だけでは生きていられない...ようだ。
長く夫婦でいると、お互いイヤって言うほどわかってしまうが、若い頃のように諫めることは少ない。"そういう人だよ..."などと既に大人になり家族を持つ子どもに話すが、彼らもそんなことは百も承知。"暮らす"とは、そのように良いところも悪いところも含めて"つきあう"こと。そうか!暮らすとは、良いところも悪いところもひっくるめて"つきあう"人間関係だ。その"おつきあい"は、答えを一つにしないから出来ることで、答えに合わせようとすると、その人らしさが消えていく...。
特養にいた頃"目"がうつろな利用者について考えた。認知症の症状が主要因で家族崩壊寸前の状態になり入所した人が多かった。そうか"家族を守る最後の役割か..."。さみしいことだが、役割がなく自由が少ない暮らしでは、自分を納得させうつろになり、考えない方が心安らか...。だが、そのままで良い訳はない。認知症による激しい行動はそれ程長く続かない。体力が衰えればその行動すらできなくなる。自らの行動を喚起するパッションが消えていく感じがある。これも今の自分と"つきあう"ことか...。
ひるがえって、知的障害者は?...。忘れられない人がいる。"今日の夜勤だれ?""今日の夜勤だれ?"と繰り返す利用者。彼は職員と見れば必ず言う。最初は"なぜ?"だったが、転勤した成人施設で意味が判った。夜勤者によって夕食後の暮らしが一変するからだ。もちろんマニュアル等で業務統一は出来ている。でも、職員の個性は統一できない。
利用者は、嫌でもその人(職員)とつきあう。これは施設である限りどうあがいても消しきれない。何故なら集団で暮らすルールが必要だから。しかもルールは基本的に職員が決める。職員でさえ100%納得できるルールなどない。つまり職員もつきあう≒折り合う。支援の場で、利用者はルールと職員の個性が混ざり合った日常に付き合わされる。北欧で入所施設はどうしても上下の人間関係をつくるので廃止すべきと言われる要因、誘因、原因だ。(2021.3)