日記
「勇気をあたえたい...」と"意思決定支援"
作曲家・坂本龍一が"東北ユースオーケストラ"を立ち上げたのは3.11後の2014年。被災地の若者と音楽活動を始め今も続けている。多くの有名人が被災地を訪問したが、継続するのは難しい。報道されなくても、話題性が乏しくても、東北に音楽文化を創造しようと活動を続けている。
坂本龍一は『「音楽の力」は恥ずべき言葉』だという。"音楽を使ってとか、音楽にメッセージを込めてとか、音楽の社会利用、政治利用が僕は本当に嫌いです。"と。背景にナチスがワーグナーをプロパガンダに利用したことがある。壮麗にして勇壮な曲想は民族誇示にピッタリだが、ナチスがT4作戦(障害者安楽死計画)からユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)へ進んだ記憶は消せない。音楽の力による負の遺産である。音楽に限らずスポーツも同様で、プレーする側、例えば、子どもたちが「勇気を与えたい」とか言うが、そのようなことは言うべきではない。大人が言うから真似する...と。音楽で感動するかどうかは個人の勝手。音楽に何か力があるわけではないから、音楽を作る側がそういう力を及ぼしてやろうと思うのは言語道断でおこがましい...そうだ。
以前から"感動を与えたい!"と言う人に違和感があったが、こんな言葉に出会ったのは、初めてでうれしいと思うと同時に"やっぱり!"と思った。"感情"の発露はどこまでも"個人"の問題。今何をしたいか...、どう暮らしたいか...、誰といたいか...は"主体ある個"が主導でなければならない。どのジャンル(音楽)が好きかどうかは1人ひとり違って当然。坂本龍一の曲は何処か東洋的な雰囲気があり独自の世界を感じる。だから、あの曲は好きだが、こちらは嫌...なんてこともある。それが"自己決定"!
支援をする時、十分配慮し意識すべきは"利用者主体"。利用者主体は職員側から考えた時の言葉で、利用者側から考えれば"意思決定"。利用者の意思決定は、坂本龍一の言うように"感情"のコントロールを要求することなく受け入れてくれる内容を提供すること。でも、危険な状態でも受け入れるわけにはいかない...。また、支援者の社会的な役割からすれば、利用者の安全安心を守るのは当然だから、利用者が不快と思うことも時には行わないわけにはいかない。そこがせめぎあいで、折り合いを必要とする。だが、多くの利用者が自らの感情を十分に言語化できない。だからこちらが推し測る。そこで親の同意を得るが、親は利用者と同じではないから当然齟齬が起きる。でも"意思決定"が大事だから納得する。それが自らの業務を終わらせる方向へ導いてくれるから。
"意思決定支援"とは、このように利用者と親と職員の感情が"せめぎあう場"になる。支援者の役割は、代弁者、媒介者、治療者。せめぎあう場ではまず代弁者の役割。次に媒介者。そして相反する感情に折り合いをつけるために治療者の役割が始まる。地域に出て暮らしたい人が社会のルールを守れなければ、その改善が治療となる。"支援"はしてあげるものではなく、利用者に"応える""添う"ものでなければならない。"○○を与えたい!"は、「"お"しつけ」だと意識したい。(2021.05)