日記

「人生のはじまり...」

 この仕事は"世の中は不条理だ"と思うことがある。児童福祉司でもめったに「棄児」に出会わない。棄児とは"捨子"。戦後の混乱期までは珍しくなかったが、高度経済成長後はほとんどいないのにたった2年で3件の「棄児」に関わった。

 戦後の動乱期"混血児"を収容した施設には入り口にトンネルがある。裸電球が数個着いた場は社会とのへだたりを感じた...。そこに新生児が放置されたと通報があり、急行し赤ちゃんの保護と健康チェック。入院している間に暮らす場所を探す。いわゆる"社会的養護"の典型。当時は判りにくい障害の有無等を考慮し乳児院入所が一般的。その時、子どもは存在していても公的に認識されていない状態だから就籍が必要だが"名前はない"。発見された地の役所で戸籍をつくる。制度では首長が名付け親になるが、窓口で「いくつか案を作ってくれませんか?」と。名前を考え窓口に行くと「判りました、これで手続きをします」。名前は漢字一文字を提案したが、その下に"一"。首長が"1人で生きていくんだから..."と。乳児院入所が完了し職場に戻る時"1人で生きていく..."...と思った。

 国際養子縁組が成立し海外に養子となって出国した子がいた。南米から来た日系の子。母親のビザに記載され入国した。当然、ビザの持ち主が母親と思ったが、友達に頼まれて親戚まで連れていって欲しいと言われただけだと主張。かたくなで結婚のために来日したという。とうとう棄児として児童相談所が対応した。法的にも難しく、このようなことにキャリアがある施設にお願いした。母親も親戚も現れないまま子どもは日本に慣れ、すくすく育ったが風貌は明らかにハーフ。二枚目顔だったが、当時はまだまだインクルージョンされていなかった。その後、国際養子縁組が盛んな国へ出国した。どのような気持ちだったんだろう...、親の行動が子どもの人生を翻弄した。

 施設の前で黒人の赤ん坊が保護された。女子。病院で1週間の検査期間を過ごすため移動した。一週間後の乳児院入所も決定。元気な鳴き声だった。乳児院長はシスター。命名から始まるのを承知で"今日は聖クララの記念日です"。"クララ"と命名したい意向。だが"氏"がないので院長に相談すると"それはもう、貴方の名前でしょう!"と。えっと、思ったが、既に当然の成り行きの状態にどぎまぎしながら手続きした。

 ひとりの人間が誕生する時、今は父方や母方祖父母がそろって産院に向かい、喜び溢れる様子が当り前だが、"棄児"はその時から孤独。戸籍の親の欄には非情にも"不詳"。既にハンディキャップがある。それでもこの子等は存在がある。「無戸籍児」は、社会的存在すら認められていない。だから、子ども家庭福祉サービスすら受けにくい。社会的養護児童は、高校卒業と同時に"孤独"になる(現在法改正審議中)。今や高校を卒業する7~8割が進学。だが、児童養護施設の子どもは2割前後。親不在だけで十分すぎるハンディにも関わらず、就学の機会にも重いハンディ。これをフェアスタートが出来ていないと言う。"フェアスタート"を求め続けているが、これを承知してから30年も経つが訴える人が少ない。何故なら、この子たちに気を配る大人が少なすぎるから。親がいないとはこのようなこと。今となっては、彼らがより良い人生を歩んでいることを願うばかり。