日記
人はなぜひとを「ケア」するのか
ずいぶん前に『人はなぜひとを「ケア」するのか(岩波書店、佐藤幹夫著)』を読んだ。養護学校教員だった著者が父親を看取った時の思い出、葛藤・・・などから"どうして人を「ケア」するのか・・・"と問う。自らの老いを感じるようになったからか・・・。長く知的障害者とかかわったからか・・・。‟意思決定支援"と言れわ始めたからか・・・。既に50年もこの仕事に従事したのだから答えが出ても良さそうだが相変わらず言語化できない。この間、忘れられない出会いは一つや二つではない。だが、"意思決定支援"となれば、次のふたつを思い出す。"過保護"と"過干渉"。間違えないでほしいが、2人とも母親は本気で心配し必死で守ろうとしていた。家族も協力的で表面的にはなんで親子関係が問題なの...と思わせた。
A君は激しい自傷行為があった。頬を叩き続け結果的に鼓膜が破れるほどの自傷行為は初めての時驚きを隠せなかった。家族は叩かせまいと必死。手を握り続け、よだれは他の家族がふき取った。言語なし、ADL全面介助の最重度で思春期真っ盛り。だが、家族と離れたプレイルームでは自傷行為が見られない。面接後、心理担当と"過保護"と見立てた。一時入所すると全く自傷が見られない。A君からは見えないように母親に様子を見せると驚きを隠せなかった。面接を繰り返し家庭での対応を学び、母親中心に家から事業所通所が出来た。B君の場合は、当初の相談は弟の夜尿。それはB君の家庭内暴力が激しく暮らしが不安定だったことが原因だった。それでも排除せずB君の課題に取り組んだ。この時の仮説は"過干渉"。面談を繰り返すと母親が精一杯の努力で良い子にしようとしていた。だが、その時B君は思春期真っ盛り。賢い母親は強いやり方に気づき慟哭の時を迎えた。精一杯の努力で家庭からの通学を試みたが家族の状況もあって施設入所となった。
問題はかかわりを持つ側≒ケアする側。人は生まれた時は全面介助。"第一次反抗期"を迎え様々にチャレンジし、失敗しつつ学びADL自立への道を歩む。次に"自分らしさ"を見出だそうともがき苦しむ"思春期"。訳の判らないモヤモヤは答えを見出だせないもがき、葛藤。障害ゆえ発信が弱くモヤモヤの表出が苦手。TEACCHプログラムのCはコミュニケーション。自閉症(A)やコミュニケーションが苦手な子ども(CH)のための教育(E)と治療(T:トリートメント)。人は成長と共に第二次性徴が始まり、モヤモヤが心的葛藤となり内包し深まる。だが、家族は発信力が弱く、ADLも未自立な子どもは幼児扱いから抜け出しにくい。一般的にも変化する子の発信にたじろぐ親がいるが、発信力が弱いと親は庇護の対象から抜け出しにくい。それゆえ幼児期と変わらない"ケア"を続ける。さらに様々な葛藤が親子関係、兄弟関係、その他のことも含めて問題を複雑にする。
"ケア"とは、相手がだれであれその人の"意思"を聞くところから始まる。最近"高齢者は..."とよく耳にする気がする。一括りにされると自らの尊厳を侵害された気になる。ケアの最重要課題は"意思に添う"。"ケア"は"意思"を聞き取る力。あえて"意思決定支援"ということに専門職は恥じ入るべき...。なぜ人をケアするのか...の答(応)えのひとつにケアの相互性...コミュニケーションの質と量がある。強度行動障害という現象ではなく、原因をコミュニケーション能力で探れるケアをしたい。