日記
親子と言えども、人格は別!
今では考えられないが父は13人兄弟の2番目。明治生まれで青春時代はモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)の大正時代。当時は長男が家を継ぐのが当然だから、義務教育終了と同時に寺の奉公に出たが、修行になじめず飛び出し郵便局の小僧に。世襲と学閥の中での仕事ぶりを偲ばせたのは、年賀はがきを10人の子どもに投げて渡す儀式。郵便番号が定着する前は行先を示す小さな口が並ぶ棚に投げ入れ地域を分けた。早く終わらせるために出来るだけ遠くから投げ入れるしぐさと同じように投げ渡した。郵政一筋で当初は逓信省だった。今は株式会社だが当時は国家公務員。記憶に残るのは大船や藤沢の郵便局長時代だが、義務教育終了の職員が局長になるのは並大抵なことではなかっただろう。父は箱膳で食事をした。壊れてからは買いようもなく1人炬燵で食事した。その前で食事をさせられたので兄たちから"殿前"と呼ばれた。のちに母から"一緒に居られる時間が一番短いから..."と聞いた。小学校5年時に病に伏せ中1で他界。状況が吞み込めず涙を流す間もなく葬儀が済むと父を亡くしても泣かない気丈な子と言われたが泣くに泣けなかっただけ。
無口な父が、時折勉強の様子を覗き込むようにして教えてくれた。教師になりたかったからか、兄弟の多くが教員になり教師だらけの家だった。眼光鋭く、物事を射抜くような目が印象的でダメと言ったら絶対ダメだった。小学生の頃、勇気を振り絞ってピアノを習いたいと話したら"女房子供を養わなけりゃならない男が音楽なんぞにうつつを抜かすんじゃない!"と一喝され断念。会津の子育て"ならんものはならん!"と眼が話していた。経済的なゆとりがあるわけでもなく、出来ないものは出来ないと真意は判っていた。願い事がすべて叶う現代は、子どもに"ならんものはならん!"と言いにくい時代になったと思いつつ、父の強さを思い出す。仕事人間だったが、存在感は抜群で、無言の姿が"努力は自らのもの!"とか、"誠実さは自らを助く!"などと言われている気がしてとても道を逸れることなど出来なかった。
両親の郷里である広島に嫁いだ姉の結婚式後の酒席で"しょうさん(父)には、本当にお世話になった..."と繰り返す人につかまり長時間、聞かされた。周囲の人もうなずいていた。見たことも聞いたこともない話しをくどくどと繰り返されたが嫌ではなかった。その後、郵政に努めた兄が話したことは、課長時代に部下の子どもが万引きをして警察の厄介になった事。当時の公務員は家族の不祥事でも辞職することがあった。子どもの世話もまともに出来ない奴に仕事は任せられない...か。上司に迷惑をかけまいと辞職願を持参してきた。父はその辞職願を封も切らずに、その場で破り捨て"親子と言えども、人格は別だ!"としかりつけたそうだ。厳格で、言葉少なで、状況を見抜く姿しか見たことのない父の優しさを見た。県立保健福祉大学の初代学長阿部志郎先生の"優しさは、人を憂う...と書く!"を思い出す。べたべたとした優しさではなく、その人をおもんばかることが出来た時、本物の優しさがにじみ出る。そんな一言が発信できる人になれただろうか...。早世した父は周囲からの情報を得て、バブルのように膨れあがり、心の中にたまり続け、今も追い越せない。既に父より10年も永らえたというのに...。(2023.4月②)