日記

しなやかな強さ

 明治42年生まれの母は、着物で日常を過ごした時間が長い。子どもの頃見た光景には洗い張りをし縫い直す姿が記憶に残る。女学校時代にはバイオリンを弾きテニスを楽しんだ。中学生になった子どもと試合をしても決して負けないほど卓球が強かった。だが、優雅な子ども時代ではなく、女学校に入る前に母親が病死し、7人のきょうだい(弟妹)の面倒を看る母親代わりで早朝、弟をおぶって公園で英単語を覚えるのが日課だった。中学1年の1学期、病気で長期に休んだ私はすっかり英語に出遅れていた。その年、暮れの買い物にお供したら"illuminationがきれいね!"と。"...?!""あんたイルミネーションも知らないの?"と笑われた。母の選んだ職業は「電話交換士」。当時はモダンで、花形の職業。だが、時代ゆえさっさとやめ父親の部下だった父と恋愛結婚した。

 10人の子どもを産み、育て、困難を極めた大陸からの引き揚げでも誰1人亡くすことなく、多くの子どもが教員、公務員。会社員は2人。母の家事は次々と片付いた。当たり前に思っていたが、今から考えると手際の良さは格別だった。50代前半で父が大病したため自宅療養中の夫の看病が日常に加わった。生来のポジティブ人間で、そんな時も明るく軽快な動きで、子どもたちがそれぞれの役割を率先してするように仕向けていた。母ががんばっていると、子どもたちはいいかげんなことが出来ない。背中で教育していた。

 小学校の頃、学校の出来事を少し膨らませて話した。もちろんウソだと分っていたが怒らない。うなずいて、手を止めることなく最後まで聞いていた。話し終わるとちらっと見ただけで何も言わない。"頑張ったね!"とほめればウソを信じ、"うそでしょう!"と言えば傷つけるだけ。黙って見ている。目と目を合わせて見続ける顔はけわしかった。表情が心を表し悲しげにも見えた。黙って去ったが、しばらくして思った。お釈迦様の手のひらを自由奔放にはしゃぎまわる孫悟空のようで、何もかもお見通しだ...と。二度とうそをつくんじゃないよ!と言われた気持ちだけがくっきりと残った。10人の子どもを育てた人物は、慈母のように思うかもしれないが、本当に慈愛に満ちているということがどの様なことか理解できている訳ではない。だが、大人になってからもお釈迦様の手のひらの上...と繰り返し思った。豊かではないが、食べ物に困るほどではない。10人もいるのに、地方から親戚の子どもが上京すると1~2人増えたって変わりゃしないと思っていたようで長期滞在をさせた。寝る時は布団を取り合っていた。母はいつも子どもの姿を黙って見ていた

 父が他界した直後に糖尿病が判った。布団を押し入れにしまう時に倒れ高血圧症が分かった。尋常の値ではなく絶対安静。療養中に糖尿病が判明。当初、医師は厳重注意を繰り返したが着実に栄養学を学びカロリー計算し自己コントロール。3姉がカロリーを簡単に測れる秤をプレゼントすると毎食にらめっこで完璧な自己管理だった。同病の我が身だがとても出来ない。当時は薬が未発達だったが、最後までインシュリンを打たず人工透析もしない節制だった。己を知り、己を愛し、家族を慈しむ。どこまでも変わらない母は79歳で他界。父は幼い子を残して死ぬ間際に"まだ、死ねねぇ!"と叫んだが、母は"ありがとう!"といい他界した。"したたかで、しなやかで、凛とした"人生だった。(2023.5月②)