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理事長日記
『ダウン症の子をもって』
1983年の初版。当時買った本はどこかに行ってしまったが、古本屋で文庫版を見つけ懐かしさから求めた。"積読"のはずだったが、読みはじめ懐かしさが募る。当時、どこまで判っていただろう...と思った。通所施設との連絡ノートの記載事項は、著者の奥様が母としての記述。親の心情を想うと共に当時の障害者サービスの貧しさが歴然とした。著者は正村公宏専修大学教授(当時)。後に福武直賞を受賞した『福祉社会論(1989年)』を著した。
その頃、出来立ての地域サービスのケースワーカー勤務で「家族教室の企画、立案、実施」があった。この本を手にして浮かんだ企画が"家族それぞれの立場からの発言"。"母の立場"は多くの候補者がいた。"当事者"は身近な人にお願いした。"きょうだい"は職場の後輩に頼んだ。とにかくお金がないので報酬が弾む人はお願いできなかった。著名人と知らず正村家に電話した。年間10回前後の講座のうち予算ありは2回程。後は報酬なしの人を頼った。だから、身内総動員の企画。受講者はスタートしたばかりの養護学校の親たち。副園長と交渉し通学バスの帰りに受講希望者を迎えた。どれだけ来てくれるかなど全く判らないまま第1回講座を正村先生にお願いしたくて飛び込みの電話だった。"あの、神奈川県...の○○です。本、読みました。家族教室で...父親の立場で講義をお願いしたいのですが..."。見知らぬ大学教授への電話は...しどろもどろだった。"いつですか?時間が合えばいいですよ!"。あっさりオーケー。日時を伝えると"大丈夫ですね。行きますよ!""ありがとうございます"。なんと、報酬も何も伝えないまま承諾していただいた。
出来立てで閑散とした駅を選び、電話だけで顔が判らないので施設名を書いたボードを掲げて待った。笑顔だがまなざしが厳しい印象で細身の方だった。障害福祉の仕事を応援するつもりで遠方まで来ていただいたようだ。受講者は50名ほど。満員。"父親"の立場に徹した話だった。それが子育て中の母親には"心の支え"や"大きな励み"になり、"心の癒し"にもなった。その後の家族教室は、毎回30人前後が受講し常に盛況だった。何より、会場でお互いを知り、友となり、協力者となった姿が無理してやった甲斐を感じさせた。それもこれも第1回講座で価値を高めていただいた正村先生のおかげだったと思い出しつつ『ダウン症の子をもって』を読み直した。子どもへの心情、家族内での行き違い、子どもの理解の難しさが当時どこまで判ったか...。それでもこの時、障害福祉は障害当事者だけの問題ではないと考えはじめた気がする。
このような古い話をするのは、古い人間になった証拠と判っているが最近はよくある。著書では、『情況の倫理(ヨルダン社、岩村信二著)』。既に絶版だったが、ネットの古本市場にはあった。98円。あぁ~書き込みがあるな、ボロボロなのを承知して購入。原爆投下は戦争を終わらせるために必要...という米国内の認識と被爆国日本のずれ。学生時代に読んだがほとんど判らなかった。だが印象的でもう一度読みたかった。学びとは、新しいものを追い求めるだけでなく、古きを温め、蓄え、深化(進化)させるもののようだ。『ダウン症の子をもって』、そして正村公宏先生へ感謝を込めて。
"自傷"は心の叫び
とにかく頭を守るためヘルメットをかぶっていた。うずくまるように座り側頭部を叩く女性。頻繁な時は職員同士で"不安定"と伝え合ったが、抑える手を振り払い叩いた。なぜ?どうして?痛くないの?訳が分からずなすすべもなかった。人間の痛覚が鈍磨するわけがないと思いつつ、見続けると判らなくなるほどの叩き方だった。か細く"フナンテイ..."と繰り返す。"不安定"が自分の様子だと知っていた。ある日、白いヘルメットが赤く汚れた。叩きすぎて手のひらが裂けていた。やむを得ず精神安定剤を使うと自傷は減少したが動きが鈍くなった。唯一"モーニン、カケテ!"。大好きな曲で"フナンテイ"がしばし消えた。だが、どうにも応じるすべがなかった。
"ダメです!頭に、そんなもの..."地域サービスで緊急一時保護された低学年の少女の母親は、体裁が悪いので一緒に歩けない...と。障害受容が出来ず追い詰められ養育困難となり入所の是非を諮っていた。でも、母が施設入所させたいのは明らかだった。少女は繰り返し自傷(頭突き)があるため、常に一緒にいる支援が必要だった。投薬でも抑制しきれなかった。"そんなもの!"とは頭部保護のヘッドギア。母の心を見透かすように少女はわがままに自己主張したが応じる母ではなかった。するとさらにエスカレート。母が少し落ち着きを取り戻し、家庭生活を受け入れようとした頃だったがヘッドギアは決定的だった。担当医に少し待って欲しいと交渉すると"命の問題なのよ!"と一蹴された。母子の暮らしを求め必要最小限にヘッドギアを使ったが、母の足は遠のき施設入所が決定。すると少女の自傷がこれまで以上に激化した。心の空洞を埋める手段はなかった。その後の便りで妹は当時まだ珍しかった中高一貫校に進学した...。
次は男性。思春期真っ盛りの養護学校高等部生。児童相談所から入所枠が空くまで一時利用でつなぎたいと言われた。初めての相談は、両親に妹と本人の4人で来た。母は話しに集中しつつ少しの涎も見逃さずふき取る。父は本人の両手を握ったまま。捕まえているのであって手をつないでいるのではない。母が見落とすと妹がハンカチで兄の涎を見逃さずふく。"それではお兄ちゃんだけプレイルームに行きましょう!"と誘うと"ダメです、あの子は私がいなくちゃ!"。"そうですか...、近くですから何かあったら声をかけます"と連れ出そうとすると、強硬に同行を主張。次は"妹が一緒なら..."と。父は無言。それでも親子分離して別室に行くとバッシ!バッシ!と鳴り響く。母親はおどおどしながら"だから言ったじゃないですか!""私が一緒じゃないとダメなんです!"そうですかと受け流しながら、話し続けていると音がしなくなる。"どうしたんですか?""何をしているんですか?"...と疑うので観察室から様子を見た。心理担当の膝枕で穏やかに眠っていた。"どうして?""..."皆、理解不能。心理担当と"過干渉"で一致。治療計画を立て3か月短期入所。毎週母親面接と週末帰宅が条件。児童相談所や学校等関係機関とのカンファレンスを月1回実施。退園前、母は自宅で見ると宣言、経過観察で毎週来園した。過干渉が鳴りを潜めると自傷行為は消えた。本人を諸サービスに委ね仲間と地域作業所を立ち上げた。母親が本人を受容できた。地域で暮らす可能性を初めて感じた経験だった。
"マジョリティ"と"マイノリティ"
中学卒業時、60人ほどの同級生に2人の就職者(バスの車掌と工場勤務)がいたと話したら、連れ合いが"頭も性格も良い同級生が集団就職列車に乗った...。結局、親だよね..."と。昭和歌謡に♫あゝ上野駅♫がある。当時は東京の北の玄関口は上野駅。集団就職後、ようやく居場所を得た若者の歌だ。"上野は おいらの 心の駅だ~"。古くは石川啄木の短歌がある。"ふるさとの訛なつかし停車場の人込みの中にそを聴きにいく"。上野駅で故郷のなまりを聞く姿が浮かぶ。中卒で都会に出た苦労はいかばかりか...。
先月、政権交代時に、直近の歴代宰相10人が世襲か否かの記事をみた。すると、民主党政権の2人以外は菅前総理大臣だけ。菅氏は高校卒業と同時に上京し就職。その後、大学を卒業し政治を志し故小此木代議士の秘書、横浜市議を経て衆議院議員に。言語不明瞭と言われ続けたが、昔の東北人の朴訥な方言を考えればうなずけた。年代から集団就職と重なった。それよりもなによりも閉塞感のあるコロナ禍での光明のように思えたが、ショックアブソーバかと思うと、捨て駒のような印象が心中から湧き上がるのをぬぐえなかった。
同じ頃、一世を風靡し他者の追随を許さなかった白鵬が引退した。15歳で志を立て来日。痩せたムンフバト・ダバジャルカル少年をスカウトする相撲部屋がなく帰国寸前、母国の先輩に紹介され残った。土俵際からのスタートだった。言葉の心配は想像できるが、太らなければならないのに慣れない食生活、上下関係の軋轢、稽古場での争奪戦。何をとっても少年が強いられた暮らしは異次元だったに違いない。今の白鵬を見て人物像をイメージするが、彼は異国に集団就職した...などと想う。ここまでくれば角界での地位は盤石か...。連勝記録こそ歴代1位を逃したが様々な記録を塗り替えた。しかし、繰り返し横綱審議委員会から警告や注意を受けた。それ故、最後まで日本社会になじめなかった...、大相撲と言う日本古来の文化を理解しきれなかった...とまで言われた。だが、元NHKアナウンサーの杉山氏は、不祥事続きだった時代に大相撲人気を支え今の興隆を支えたのは白鵬だと感謝のコメントを残した。勝ちにこだわり"横綱の品格"を問われ続けた。日本国籍を取得した時、自筆の本名の前で"俺の本名だけど、今はこの世にいない名前なんだ"と...。大相撲のしきたりは、日本人でも判りにくい。国技、神事と言われ、現代になじまない規則(慣習?)がある。大阪場所で女性知事が土俵に上がると公言したが"けがれ"を理由に拒否。今も変わっていない。また、親方は日本国籍でなければならず、これまで外国人力士が相撲協会の役員で活躍した姿を見ない。どこまで白鵬は挑戦できるか...。モンゴル育ちとは思えない流暢な日本語、最高峰の大横綱双葉山の研究、見識。どれをとっても、日本人であるとかないとかの域を超えた存在だと思うが...。
最近、個人の努力が通じない現実がありすぎると思う。集団就職で都会に来た人たちは今日の礎をつくった。外国人労働者は...。彼らは一段下がった所から社会適応を強いられていないか...。母国では英雄でも帰化人はマイノリティ...。世襲以外はマイノリティ...。では、マイノリティとマジョリティの違いは?障害者はマイノリティ?いや、重度障害者がマイノリティ?障害者にマジョリティはいる?
"あんたもネクチャイして仕事に行かないと!"
最初の職場、知的障害児入所施設には2人の就労直前の利用者がいた。18歳を過ぎたが、成人入所施設が満床で移れなかった。2人は全く性格も行動も好きなことも違っていた。ただ共通していたのは、実習先から辞めさせないで欲しと頼まれるほど評価が高かった。だが児童施設に居続けるわけにもいかずそれぞれ就労系入所施設へ転出した。
働く先輩を見て育つと"僕もやってみたい..."と漠然と思うようで、2人の後は僕が行くと考えていた人がいた。2人より年齢が高く障害程度も重かった。数を数えられない障害者が働けると思えなかったが、あまり熱心に実習をせがむのでほだされて失敗しても良い...、失敗したら判るだろう程度に2人が働いていたつてを頼ってお願いした。数の概念より心配だったのは利き腕の麻痺、重いものは持てなかった。1人では難しかろうともう1人、意思疎通が十分な利用者と共に3カ月限定の実習が始まった。1週間つきっきりで付き添い、次第に離れて2人で仕事に出るまで1か月かかった。
しばらくして様子見に職場を訪ねると、管理者から意外な話を伝えられた。意思疎通が出来る利用者は予定通り終了。もう1人は継続。どう考えても麻痺があり、意思疎通が難しく、数えられない利用者が終了...。役割は5個ずつ結束する仕上げ係。意思疎通が出来る利用者は、結束機を使っている職員のペースにあわず、おしゃべりが過ぎて仕事に身が入らない。黙って見て下さいと念を押されもう1人を見ると、職員のペースに合わせてリズミカルに渡せる。気になって数え方を見た。確認のために職員が数える様子もない。管理者がそばに寄ってきて"どうも手の幅で数えているようです"。何が何だか分からないでいると、段ボールは2種類だけなので厚みは2種類。だからその違いが手の幅で判る彼は、職員のペースに合わせて渡すことが出来た。にわかには信じられず、しばらく見て納得した。だが、手の麻痺は?段ボールをつかんで渡すと考えていたが、手の甲に乗せ一方の手で上から押さえていた。これを自分で編み出したと聞き驚いた。自信たっぷりに仕事する顔が輝いていた。社長さんの計らいでご褒美を給料袋で頂いた。給料をもらい自信がつくと、怒りっぽかったのに、怒ることも少なくなり毎日仕事に行った。
給料後最初の休日に買い物のお供を頼まれ休日返上で付き合った。嬉しそうに外出着に着替え、ポケットに給料を突っ込んで外出。"ところで何を買うの?""ネクチャイ!""ネクタイ?""そう、ネクチャイ!"出勤時、ネクタイをしなくてはいけないそうだ。必要ないのでやめるよう勧めるが"大人はネクチャイして仕事にいく!"と真っ赤なネクタイを購入した。次はラーメン屋。座ると"ラーメン!"と言いながら指を2本たてる。こちらの意向を無視し、奢ると言ってきかない。2人分払った帰り道"あんたもネクチャイして仕事に行かないと!"と。何のことか分からなかったが、どうもいい年になったので仕事に行きなさいと諫めていたようだ。"......"その時の彼は自信に満ちた顔だった。このことからこちらが勝手に力量を決めてかかってはいけないと教わった。麻痺がなんだ!重度がどうした!俺は俺だ!と言われた気がした。障害を重くしているのは、周囲にいる人のブレーキかもしれない...。
"♯We The 15"
あっという間に熱が冷めてしまったパラリンピックは、アスリートの大会と言われるようになったが、IPC(世界パラリンピック委員会)は、"原点回帰"を提唱し、"♯We The 15"を今大会から始めた。ダウン症の少女が発言する映像があった。"15"は、世界人口の15%が障害者だから、すべての障害者の課題を...という意味。「15%が障害者」って、多くない?厚生労働省の発表は936万人、総人口の7.4%なのに...。IPCの映像では顔にあざがある人も出演している。日本は範疇が狭く障害者の理解が限定的のようだ。
"原点回帰"とは、パラリンピックが英国のストーク・マンデビル病院でグッドマン博士がリハビリテーションを目的に行ったスポーツ大会が起源だから。アーチェリーが最初の競技だが、当時は"スラローム"があり、車いすの操作技術を競うリハビリ目的らしい種目があった。ローマで初めてパラ大会が行われ、次の東京(前回)でオリンピック会場を使い毎回実施と決定した。また、ソウルでは、それまでの"パラプレジア(マヒ)"の"パラ"を"パラレル(並行)"の"パラ"とした。パラリンピックがオリンピックと並行の大会となり、選手を"パラアスリート"と呼び、スポンサーが付き障害者アスリートの大会となった。しかし、グッドマン博士が提唱したのは、障害を得て心まで病む人たちの"生きる喜びをスポーツで取り戻す"リハビリテーション(社会復帰)だったので、その原点に戻ろうということ。
日本のパラスポーツの父・中村裕医師は、ストーク・マンデビル病院に留学し、帰国後パラスポーツの発展に尽力、前回の東京パラ日本チーム団長だった。大分県に障害者施設・太陽の家を創り「保護より機会を」を理念に就労中心の支援と共に障害者スポーツの発展に尽力した。中村医師がモデルのNHKドラマで、車いす生活に悲観した中途障害者が車いすバスケに挑戦し生きる喜びを取り戻す姿があった。多くの中途障害者が自殺を考えるそうだが、ドラマではスポーツの力で恢復する姿があった。障害者にとってスポーツが特別な力を持つようだ。それが原点回帰、"♯We The 15"。
これまで健常者スポーツをベースにした競技が多かったが、次第に重度障害者も楽しめる"ボッチャ"や視覚障害者の"ゴールボール"など障害者のために提案された競技が加わった。次第に変化する競技が"マヒ(パラプレジア)"ではなくオリンピックと"平行(パラレル)"になる姿を表す。それは人間の可能性に挑む障害者=チャレンジドの素晴らしい姿だけでなく、障害者が趣味等を楽しみ、生きがいを見出す姿と重なる。
パラスポーツ写真家の清水一二さんは七沢リハでの勤務経験がある。既に40年のキャリア。作品はスポーツを楽しむ障害者の真摯な姿、勝者の笑顔、悔し涙の敗者だけでなく、障害者への熱情も感じる。それは障害者の日常を映し出し、社会へのアプローチを観る。障害者には、スポーツが単なる勝負でなく豊かな人生へのツールとなっている。それは"インクルージョンふじさわ!"をミッションとする(福)藤沢育成会の目標と同じ。メダルや勝敗ではないパラスポーツの価値をみた。
"僕がお父さんを棄てることに決めた!"
「おちょやん」という朝ドラで、主人公(浪花千恵子がモデル)が奉公先へ旅立つ時、父が母の写真を持たせた。その時「うちは捨てられたんちゃう、うちがお父ちゃんを棄てたんや!」と涙を浮かべた。どこかで聞いたセリフ...だった。児童相談所で仕事をしたいとこの仕事に就いたが、児童福祉司はたった2年。それでも忘れられないセリフがある。それが"僕がお父さんを棄てることに決めた!"。衝撃的だが、彼は苦しみ、もがき、悶え、身体いっぱいの涙を全部絞り出すようにしながら、か細いが覚悟がみなぎる声で話した。
6年生、担任から相談だった。盗癖と聞いたがひ弱な少年だった。消え入るような声でぼそぼそ話すので聞き取りにくい。存在感がなく友だちもいない。家庭訪問に条件があった。「車で来るな、玄関先で児童相談所と言うな!」。訪問すると、父は少年をなじるだけで話にならない。母はその場に表れない。とにかく病気だからどこにでも連れて行けという。だが、そう簡単に親子分離は出来ない。少年が少しずつ話し始めると、食べさせてくれないひもじさから盗んだ...。学校の必需品も万引きでそろえていた。そこまで困窮した様子は見えないが、子どもにお金を使わないことが徹底されていた。近所に住む成人した姉に様子を聞くと、継母子で母は全く子どもを見る気はなく、父は母に何も言えない。卒業も近く自宅から通学させたいが、食事もままならないまま安易に在宅を続けられず一時保護。
保護後、少年は少しずつ快活になった。地元小学校を卒業したいので、父が来ることを願っていた。父を促したが動かず、日に日に少年がいない暮らしになった。父は"近所に子どもは長期入院したと話したので帰ってきたら困る!"の一点張り。子棄てだと思い、にがり切った。帰宅の道筋を探って実姉に話すと結婚するので引き取れない...と。結果、施設入所方向に。あまりに理不尽だと思いつつも、このまま帰宅しても少年の生活改善は見込めず会議に諮り施設入所が決まった。
せめて、卒業式に父が出席できないかと腐心したが、かたくなに拒否。ここまでくると子どもは託せないことが歴然とした。だが、少年に説明のしようがない...。少年から卒業式に出たいとせがまれた。そうしたいが、親が出席しないことをどう...などさまざまなことが交錯した。その頃、実姉から卒業式に出席させたいので同行して欲しい...と相談された。姉だけでは心もとなそうで日帰り帰宅を理由に同行した。当日、少し緊張気味だったが無事終了。そのままでは帰れず、3人で食事をして卒業を祝った。小学校卒業の門出が...と思ったが、少年は外食ではしゃぎ、姉も少しの役割を果した安堵感があった。
保護所に帰り一番大切な話しをした。経過を少しずつ、少しずつ伝え、子どもに判るように、子どもを傷つけないように...。若造の福祉司がどこまで配慮できたか判らない。彼はその間、ずっと泣いていた。泣いて、泣いて、絞り出すような声で"わかった、僕がお父さんを棄てることに決めた!"...と。入所時、少年は笑顔だった。転勤で担当を離れたが"○○君、猛勉強で県立高校に入学!"と聞いた。当時は公立以外の進学は不可。最下位を争う成績だったが、本気で猛勉強したのだろう。心にほのかなぬくもりを覚えた。覚悟を決めた人間はどこまでも強い!