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理事長日記
「読む、書く、話す」思考回路
いつしか1日1冊以上の本を読むようになった。次第に増え今は月40冊程度。高校時代、地下鉄工事で路線バスが渋滞し遅れるので早めのバスに乗った。車中が長いため読み始めると振動で目を悪くし眼鏡姿に。それ故車中で読まなかったが、40代後半に社会福祉士受験で再開。片道90分の通勤で学び、机に向かわなかった。次の勤務は小田原。横浜から東海道線で1時間。港北区居住で車中の有効活用が課題。適度な揺れが心地よく寝不足解消に最適だが、目覚めると...。そこで読みはじめた。他に煩わされない時間で集中できた。面白くなり本を探しに図書館へ。ジャンルが多様で興味が分散し広がった。すると読むスタイルが変わり自宅ではなく電車や待ち時間で読む。高齢になり朝が早くなると起き抜けの布団の中。文字を追うようで追わない時が増えた。特にドキュメントなど、内容を承知している時は精読しない。眺めつつ違うことを考える。監督、コーチの本は、法人運営、経営の話、子育ての本は療育との相関。読むのか考えるのか判らない状態は"考える種"を見つける時間だと思う。学校での習慣から記憶するために読むことが多いようだが必要性はどこまで...。忘れたら調べれば良いことなのに。だから"知る"ためではなく"考える"ために読む。
一方で"書く"。初めての出版物掲載は20代後半。子育て真最中の調査研究で二段ベッドの上に資料を積み、暇を探して作業した。書くのは嫌いではないが、兄姉の指摘を受け苦手意識満載。だが、先輩から情報発信が遅いと叱られ「理事長日記」の原型が始まった。数行のコメントと毎週の出来事を書いたが、次第に楽しさを知った。また、感想などを頂き一層の励みに。書くことで多様な角度から見る習慣がつくと思考回路が多様になっていくのを実感した。最初は毎週1回=年54回、大学ではゼミ開催時に1枚=年30回、理事長日記は月2回=年24回と次第に減ったが考える素材が膨らみ材料に困らなかった。書くことで核心を見ると思考が整理しやすくなった。問題を展開する能力を培う手段が"書く"作業。
そして"話す"。教師は"話す"のは日常業務だから苦手な人は苦痛だろう。そのような人が教師を選ぶとは思えないが、"話す"ことが好きでも話し上手とは限らない。なぜ話すのかを熟知しないと"話し"が見えにくい。これは役所時代に育った。分からない人、判りたくない人に"話す"のは大変。だから工夫が必要。工夫≒考えることだから"TPO"や"5W1H"を考え、ストーリーを持たせる。順番を間違えると判りにくい。だが、基本が判っていない学生には、聞きたいと思わせることから始める。大教室で当初、最後方で聞いていた学生が次第に中段へ。"ほう!"と思っていたら最後には最前列。最終講義終了後、"すご~っく、面白かった!"と。興味を持たせる仕掛けは、保育系学生なので"童話"を読み聞かせる時の"エキス"と社会福祉をつないだ。だが民生委員等の研修では実践例を織り交ぜる。分らない人、興味のない人がどのように関心を持つか...ずいぶん鍛えられた。
"読む"が面白くなり、"書く"が好きになり、"話す"が加わり伝える醍醐味が思考回路を育んだ。この仕事を50年も継続したことではなく"考える"を育ててくれたことに感謝。必要なのは、知識ではなく自分で"答"を導き出す力量、検証し仲間を呼ぶ力量、さらには現実に添う手法を生み出す力量が備わり物事を見極める"力≒思考回路"を育む。(2023.6)
しなやかな強さ
明治42年生まれの母は、着物で日常を過ごした時間が長い。子どもの頃見た光景には洗い張りをし縫い直す姿が記憶に残る。女学校時代にはバイオリンを弾きテニスを楽しんだ。中学生になった子どもと試合をしても決して負けないほど卓球が強かった。だが、優雅な子ども時代ではなく、女学校に入る前に母親が病死し、7人のきょうだい(弟妹)の面倒を看る母親代わりで早朝、弟をおぶって公園で英単語を覚えるのが日課だった。中学1年の1学期、病気で長期に休んだ私はすっかり英語に出遅れていた。その年、暮れの買い物にお供したら"illuminationがきれいね!"と。"...?!""あんたイルミネーションも知らないの?"と笑われた。母の選んだ職業は「電話交換士」。当時はモダンで、花形の職業。だが、時代ゆえさっさとやめ父親の部下だった父と恋愛結婚した。
10人の子どもを産み、育て、困難を極めた大陸からの引き揚げでも誰1人亡くすことなく、多くの子どもが教員、公務員。会社員は2人。母の家事は次々と片付いた。当たり前に思っていたが、今から考えると手際の良さは格別だった。50代前半で父が大病したため自宅療養中の夫の看病が日常に加わった。生来のポジティブ人間で、そんな時も明るく軽快な動きで、子どもたちがそれぞれの役割を率先してするように仕向けていた。母ががんばっていると、子どもたちはいいかげんなことが出来ない。背中で教育していた。
小学校の頃、学校の出来事を少し膨らませて話した。もちろんウソだと分っていたが怒らない。うなずいて、手を止めることなく最後まで聞いていた。話し終わるとちらっと見ただけで何も言わない。"頑張ったね!"とほめればウソを信じ、"うそでしょう!"と言えば傷つけるだけ。黙って見ている。目と目を合わせて見続ける顔はけわしかった。表情が心を表し悲しげにも見えた。黙って去ったが、しばらくして思った。お釈迦様の手のひらを自由奔放にはしゃぎまわる孫悟空のようで、何もかもお見通しだ...と。二度とうそをつくんじゃないよ!と言われた気持ちだけがくっきりと残った。10人の子どもを育てた人物は、慈母のように思うかもしれないが、本当に慈愛に満ちているということがどの様なことか理解できている訳ではない。だが、大人になってからもお釈迦様の手のひらの上...と繰り返し思った。豊かではないが、食べ物に困るほどではない。10人もいるのに、地方から親戚の子どもが上京すると1~2人増えたって変わりゃしないと思っていたようで長期滞在をさせた。寝る時は布団を取り合っていた。母はいつも子どもの姿を黙って見ていた。
父が他界した直後に糖尿病が判った。布団を押し入れにしまう時に倒れ高血圧症が分かった。尋常の値ではなく絶対安静。療養中に糖尿病が判明。当初、医師は厳重注意を繰り返したが着実に栄養学を学びカロリー計算し自己コントロール。3姉がカロリーを簡単に測れる秤をプレゼントすると毎食にらめっこで完璧な自己管理だった。同病の我が身だがとても出来ない。当時は薬が未発達だったが、最後までインシュリンを打たず人工透析もしない節制だった。己を知り、己を愛し、家族を慈しむ。どこまでも変わらない母は79歳で他界。父は幼い子を残して死ぬ間際に"まだ、死ねねぇ!"と叫んだが、母は"ありがとう!"といい他界した。"したたかで、しなやかで、凛とした"人生だった。(2023.5月②)
家族の変化と療育のパートナーを考える
年度始まりの忙しさを抜け出し、ボーっとテレビドラマ『私小説』を見た。発達障害がある小説家の話。妻のことだけを書くので"私小説"。我が妻が「どうして家族が見えないんだろう・・・」。高校時代も描かれているが家族関係ゼロ。親心は?共に暮らす家族は?結婚時の両親は?と思うが全くない。我が身も終了時「どうしてなんだろう?」・・・と。『キッチン革命』では、子どもの頃、真新しい"団地"に友を訪ね、キッチン革命の"DK"=ダイニングキッチンを見て驚きあこがれたが、この感慨が分かるかな・・・と。かつては食卓が家族像を表したがドラマの食事風景が減った。そういえば家族で食卓を囲む機会が減った。その後『グランマの憂鬱』が始まった。村人たちがグランマの家で食卓を囲むが、息子家族の住む都会では嫁姑の確執に悩む幼児が問題になっても父親不在。グランマの住む田舎に転居する"妻子"に父は付き添わない。だが、違和感なく進行し最後まで不在。男女共同参画、女性の働きやすさが社会問題化しているが家族に"父=夫=男"がいない。
30歳頃、児童相談所で"グループ指導"を担当した。障害幼児の通園施設がなかったから児童相談所に1週に一度、親子通所。年齢や障害程度に合わせ療育を行った。当時は男が仕事、女は家庭の考え方が色濃く障害児の母の就労は社会的風潮が許さず、子どもに時間を割くのが当然。法人の親子登園プログラム「はぐ」の初期には利用者が多くいたが、次第に利用者数が激減し事業廃止。そこで「ぷれっじ」で試みたが就労する家族は欠席。事業の役割や意義を捨てきれないまま終焉した。その頃、幼児の母親が参加したインクルツアーがあった。車中、お互いに知らない情報を交換する姿に驚いた。児童相談所時代の親たちは固定電話の連絡網で情報交換していたが・・・。時代は変わり親同士の連絡は皆無の様子。この頃子どもの学習塾が集団指導(教室)から個別指導(対面)に代わったことがつながった。
時代の移ろいは"サービス"に変化をもたらす。ドラマの"家族像"が変わるためには実際の家族像が反映する。これを示す言葉が"家族機能の外注化"。最近は家庭で洗濯していたものも、日常の掃除も業者委託ができる。また、"コケコッコ症候群(個食、欠食、孤食、固食)"も定着。朝食を欠食する人が増え、家族団欒はファミレスでそれぞれ別メニューを食べる個(別)食が増え、好きなものしか食べない固(定)食が増えた。また、それぞれの都合に合わせて1人で食べる孤(独)食が日常となり食卓は家族を映さなくなった。家族関係が希薄になったかどうかは判らないが、家族内人間関係に縛られない暮らし方は家族像が変わって当然。それゆえ「家族を療育のパートナーに!」なることを求められる障害福祉サービスは今まで通りではなく新たな手法が希求される。
まだコロナの残骸が気になる昨今、どのような手法があるのかを探す作業は並大抵ではないが、若者がスマホ中毒になるほどネット社会に浸っているのだから、ネットを使えば療育の情報を目にする機会は増えるのではないか。ウイズコロナの時代に学んだZoomをはじめとしたネットを利用した会議や研修やイベントを考えれば、対面の方が良いのが判っていたとしても、次善の策としてネットを利用し"家族を療育のパートナーに!"になれる工夫があっても良いはずだ。(2023.5)
親子と言えども、人格は別!
今では考えられないが父は13人兄弟の2番目。明治生まれで青春時代はモボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)の大正時代。当時は長男が家を継ぐのが当然だから、義務教育終了と同時に寺の奉公に出たが、修行になじめず飛び出し郵便局の小僧に。世襲と学閥の中での仕事ぶりを偲ばせたのは、年賀はがきを10人の子どもに投げて渡す儀式。郵便番号が定着する前は行先を示す小さな口が並ぶ棚に投げ入れ地域を分けた。早く終わらせるために出来るだけ遠くから投げ入れるしぐさと同じように投げ渡した。郵政一筋で当初は逓信省だった。今は株式会社だが当時は国家公務員。記憶に残るのは大船や藤沢の郵便局長時代だが、義務教育終了の職員が局長になるのは並大抵なことではなかっただろう。父は箱膳で食事をした。壊れてからは買いようもなく1人炬燵で食事した。その前で食事をさせられたので兄たちから"殿前"と呼ばれた。のちに母から"一緒に居られる時間が一番短いから..."と聞いた。小学校5年時に病に伏せ中1で他界。状況が吞み込めず涙を流す間もなく葬儀が済むと父を亡くしても泣かない気丈な子と言われたが泣くに泣けなかっただけ。
無口な父が、時折勉強の様子を覗き込むようにして教えてくれた。教師になりたかったからか、兄弟の多くが教員になり教師だらけの家だった。眼光鋭く、物事を射抜くような目が印象的でダメと言ったら絶対ダメだった。小学生の頃、勇気を振り絞ってピアノを習いたいと話したら"女房子供を養わなけりゃならない男が音楽なんぞにうつつを抜かすんじゃない!"と一喝され断念。会津の子育て"ならんものはならん!"と眼が話していた。経済的なゆとりがあるわけでもなく、出来ないものは出来ないと真意は判っていた。願い事がすべて叶う現代は、子どもに"ならんものはならん!"と言いにくい時代になったと思いつつ、父の強さを思い出す。仕事人間だったが、存在感は抜群で、無言の姿が"努力は自らのもの!"とか、"誠実さは自らを助く!"などと言われている気がしてとても道を逸れることなど出来なかった。
両親の郷里である広島に嫁いだ姉の結婚式後の酒席で"しょうさん(父)には、本当にお世話になった..."と繰り返す人につかまり長時間、聞かされた。周囲の人もうなずいていた。見たことも聞いたこともない話しをくどくどと繰り返されたが嫌ではなかった。その後、郵政に努めた兄が話したことは、課長時代に部下の子どもが万引きをして警察の厄介になった事。当時の公務員は家族の不祥事でも辞職することがあった。子どもの世話もまともに出来ない奴に仕事は任せられない...か。上司に迷惑をかけまいと辞職願を持参してきた。父はその辞職願を封も切らずに、その場で破り捨て"親子と言えども、人格は別だ!"としかりつけたそうだ。厳格で、言葉少なで、状況を見抜く姿しか見たことのない父の優しさを見た。県立保健福祉大学の初代学長阿部志郎先生の"優しさは、人を憂う...と書く!"を思い出す。べたべたとした優しさではなく、その人をおもんばかることが出来た時、本物の優しさがにじみ出る。そんな一言が発信できる人になれただろうか...。早世した父は周囲からの情報を得て、バブルのように膨れあがり、心の中にたまり続け、今も追い越せない。既に父より10年も永らえたというのに...。(2023.4月②)
連なる目標を見すえる!
年度初めは顔ぶれが変わり次の目標へ向け始動する。今年度、法人は"再整備元年"とし、未来の障害福祉サービスに向けたスタートの目標を掲げたことからいっそう心改まる。こう話すと"再整備"が目標のようだがそうではない。再整備はいくつもの障壁を次々にクリアしなければならない。だから建物が新しくなっても成就したとは言えない。
入所事業では個室化された環境で利用者の暮らしは変化する。その時の支援は...。職員は新たな支援が始まると承知したい。一方、生活介護事業所では、地域の人々との連携は...、利用者の主体性は...。従来の支援とは違う"質"が求められる。また、地域の人々との交流が増えれば職員個々の力量が問われ、法人の統一感が見えなければ信頼の礎が崩れる。それ故、事業運営だけではなく組織的な管理運営や地域社会との連動を意識した事業展開が必要だ。それが法人のミッション"インクルージョンふじさわ"や"それぞれのマイライフ"の具現化と連動する。つまり建物の再整備と同時に新たな環境を生かし、展開する方法が求められる。目標はバラバラではなく連動していると承知したい。
これまで多くの社会福祉施設再整備を見たが、多くが従来の踏襲だった。だが藤沢育成会は"未来を創る!"と意識したい。たとえば、"地域福祉"の代名詞・グループホームを入所施設育ちの職員が中心に運営すると、入所施設の支援と同じことが多い。新しい建物にグループホームと名付けても「地域福祉」は成就しない。環境を生かした支援が創り出せなければ再整備とは言えない。準備には多くの時間を要し、カリスマひとりでは出来ない。そこで、最終目標に到達するために多くの対策を練った管理、運営、支援の手法を創り出さなければならない。そこに必要なのは"人材"。人材は"人財"と考え豊富な育成が必要だ。今だけを見ていては"人材が人財"にならない。事業と同様に"未来を見すえた"組織的連動が必要だ。往々にして"専門"知識のある人を"良い人材"と考えがちだが、知識を知恵に変えられなければ宝の持ち腐れ。だから自ら学ぶ=学習力、自ら考える=思考力、そして出来る事を探す=実行力を育てる。それが人材を人財にするポイント。さらに"チームの力量"を蓄えなければならない。個を重んじすぎると組織の力量を高める時に弊害をもたらす人材が育ちかねず要注意。だから①意思が統一された組織力、②チームを繋ぐ複合力、③チームで結果を出す実行力が大切。このためには、職員が多様に発言し提案する環境が必要。"やらせられる仕事"ではなく"自らの意思でやる仕事"が希求される。それはミッションを共有しひとり一人のモチベーションが不可欠。"ライン"の意思決定と"スタッフ"の自由闊達な発言や切磋琢磨による縦軸と横軸がかみ合わなければならない。
社会福祉法人は業務が日常的なため新陳代謝しにくく、切磋琢磨を回避したがるが、"日常"を仕事とするとは利用者の日常やプライバシーに踏み込むこと。故にその非日常を日常と混同しない知識やセンスを持たなければ利用者におしつけ、支援の質が下がる。だから再整備は自らも再整備して、質の高い支援のための準備が必要だ。財政課題をクリアし、建物の再整備をクリアし、新しい支援が確立し、組織運営が下支えする体制等すべてが再整備。つまり"目標が連なっている"。そのすべてを含めて"再整備元年!"(2023.4)。
不思議なご縁
実は一度も同じ職場にならず、直接の関係はなかった。もし同じ職場だったら一触即発だったのではないかと思う。だがいつも気になる人だった。初めてお会いしたのは20代の頃。所属施設の再整備のために、県庁の責任者が来園し説明する会議に出た。当時は、指導員が運営中心で保育士は支援中心だったから若手の指導員にも役割が回ってきた。説明を聞いた後、質問をした。課長から再整備の考え方を問われたばかりだったので、結構生意気なことを聞いたようだ。会議終了後に背の高いほっそりしたその人が近寄って"ノーマリゼーションを知っているか?"と聞かれた。間違いなくノーマライゼーション(英語)ではなくノーマリゼーション(デンマーク語)だった。承知しておらず答えに窮していたら"専門職ならノーマリゼーションぐらい知っておけ!勉強しろ!"と言われた。言い返すこともなく立ちすくんだ。しばらくしてそれがノーマライゼーションで、その後"福祉の哲学"と言われる言葉と知った。世間はまだ入所施設しか考えていない頃の話。その人は行政職で福祉職ではないと後から教えられ驚いた。それは次代への学びの一歩となる言葉だった。
その後接点はなかったが、高齢福祉施設建設担当だった頃に障害福祉施設建設担当との交流が頻繁だった。障害福祉課長がその人だった。はたから見て進歩的な考え方の方針決定をうらやましく思った。だが、生一本な性格ゆえ担当者は考え方を受け入れてもらえず、夜な夜な愚痴を聞くこともあった。しかし、その流れはノーマライゼーションを実践しようとしていると読み取れた。行政の場の主流は行政職。しかもその人も行政職。失礼ながら異端児...。行政では、淡々と従前踏襲で仕事をこなしている人が多いと思われているようだが、考えてみれば、そのままやり続けたら新しい課題にどう取り組むのか...。問題に触れずやり過ごすことはできない。だから、勇気をふるって立ち向かう仕事ぶりが次第に好きになった。だが、他課のヒラ職員が直接話せるわけもなく遠い存在だった。その頃、(福)藤沢育成会は法人認可された。法人設立の日が11月22日≒良い夫婦の日だと初めて言ったのが、当時障害福祉行政全体の責任者だったその人。
立場が近づいた頃その人は退職に向かう年になり施設長として転出。その頃、反対に本庁勤務が増え距離が縮まらなかった。民間の施設長を経て法人理事長となった頃、一度だけ県庁にいらっしゃった。丁重にお迎えし要望事項を承った。同席した背の高い常務理事と並ぶと視線がどうしても上に向いた。後に一緒に仕事をするとは思いもよらなかった。しばらくして福祉職の同僚から電話があり、癌を患って今回最後の会合となるとの説明付きでお誘いを受けた。正直、戸惑った。一度も同じ職場経験がないのに出席して良いものか...。職場の皆さんだって違和感があろうと思ったが、強く出席を求められた。訊くと旧知の仲間たち。最後に"本人のたっての希望なの!"と言われ承諾した。行きたいのに遠慮していただけだからお誘いに感謝しかない。末席でお話を伺った姿は、病んだ体に鞭打つ感じでつらそうに見えたが常に笑顔。本当に良い時間と感じている様子で、あの笑顔が忘れられない。まさか、その後を引き継ぐとは思いもよらなかったが、ノーマライゼーションを継承する役割を担えたのも何かのご縁だったのかもしれない。(2023.3月)