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理事長日記
父権主義(パターナリズム)
少し前の話ですが、福祉新聞に昨年9月の障害者権利条約に関する日本への勧告について次のような記事が掲載されていました。(2022・9・20)
「国連の障害者権利委員会は9日、~中略~、障害児・者の施設収容廃止(脱施設化)を求め、地域での他の人と対等に生活するための支援に予算配分することを求めた。」また、「全体を通した思想として医療モデルや父権主義からの脱却がある。」
この記事で特に気になったのが、後段の「父権主義」という言葉でした。英語の原文は「paternalist approach」で「温情主義」と訳している団体もありましたが、これが何を意味しているのか辞書(weblio辞書)で調べて見ると、「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。対義語はマターナリズム(相手の同意を得て、寄り添いつつ進む道を決定していくという方針)。」となっています。
東京新聞の社説(2022・10・12)では、『所見冒頭で懸念を指摘したのは日本の政府が、健常者が障害者に「やってあげる」というパターナリズム(父権主義)に偏っている点だ。』と論じています。
このことが暫く頭に残っていたのですが、いくつか思い当たることがありました。
それは、昨年3月末で湘南あおぞらの施設長を退任してからのことです。退任後も法人の役員として週三日ほど法人の所在地である湘南あおぞらに出勤していました。
それまで、顔を合わせると「倉重施設長、倉重施設長、」と何度も声をかけて来ていた利用者が、私の顔を見ると怪訝な顔をしています。
それまでは彼とは気が合うなあと思いながら私の方もお喋りを楽しんでいるつもりでしたが、どうも今回はそんな雰囲気ではありません。それは、どうして辞めた倉重さんがここにいるの?もう気を使いたくない!と言う感じなのです。
似たようなことをもうひとつ思い出しました。私が18年前に湘南あおぞらに施設長として赴任した初日に玄関で出会った利用者から、「来るな!帰れ!」と怒鳴られたことです。その方とはそれが初対面でした。
その方も私が退任してからは顔を合わせても何も言わなくなり、何とも言いようのない表情で私を見つめています。
さらに遡ると、施設長としてスーツ、ネクタイ姿で朝礼に参加し挨拶が終わった後に、いきなり後ろから背中に体当たりされた事もありました。その方とも初対面に近い状態でした。
自分から入所施設に入りたいと望んで来た利用者がいたでしょうか。
私自身の中に無意識にせよ、無意識であるからこそ怖いのですが、「やってあげる」と言う「父権主義」の深い根が張っていて、その事を利用者は見事に見抜いて上記に挙げたような行動になったのではないでしょうか。
深く反省させられた記事でした。
2023年9月1日 理事長 倉重 達也
身の引き締まる思い
6/16に理事長に就任して早いもので1か月半が過ぎました。少し身辺も落ち着いてきたので、8月より理事長日記を開始したいと思います。毎月初の公開の予定です。
落ち着いて来たとは言っても、私も藤沢育成会に奉職して20年が経ち、今までの延長と言えば延長、あまり仕事に関しては大差がないので目新しいことは書けないかも知れません。
そんなことをつらつら考えていましたが、よく考えて見ると現場を離れて1年4ヶ月が過ぎ、また、新型コロナウイルス感染症のため4年近くも事業所へ行くのを控えていたことも重なり、現場の状況がどうなっているのか自分の目で確かめてみる必要性を感じました。
そこで、先ずは2年目に勤務した湘南ゆうき村に行くことにしました。
ひと通り課長から湘南ゆうき村の現状について説明を受けましたが会議で報告を受けていたのと実際に自分の目で見るのとでは肌感覚が全然違います。具体的には通所介護が縮小し1階を利用する方で若い人が増えていることなどです。
一回りしながら利用者さんや職員と言葉を交わしていると、一人の目の不自由な利用者さんが「理事長さんて誰?」と聞いて来ました。湘南ゆうき村は私が19年も前に9か月ほど勤務していたところでしたので、「私ですよ、わかりますか?」と逆に問うと、彼女は少し考え込むように間をおいて、
「なあ~んだ倉重さんか」
と一段と大きな声で返事をしてくれました。代わり映えのしない新理事長で少しがっかりさせたかなと思っていると、そうではなかったようですぐその後に、
「おめでとうございます。頑張ってください~」
とホールに響き渡るようなエールを貰いました。
その時まで何人かの方から同じようなメッセージを頂きました。どれも心の籠ったお祝いと励ましのお言葉でしたが、この時ほど身の引き締まる思いをしたことはありませんでした。
2023年8月1日 理事長 倉重 達也
大変お世話になりました。
スメタナの交響詩『わが祖国』が好きだ。祖国の独立、尊厳を願い書かれた。第2楽章で大河「モルダウ」を表現した。水源のわずかな水がいずれ大河となり大海に出る。スメタナは我が子を病で失い、自らも病で失聴する悲劇を経てこれを書いた。他方、共産化に反対した指揮者クーベリックはソビエト連邦崩壊時、亡命先のアメリカから帰国し『プラハの春音楽祭』で指揮した。この音楽祭は『わが祖国』がオープニング曲と決まっている。権力に抗い亡命し、時を経て帰国した直後の演奏は強烈な印象を残した。美しいメロディーにこの背景を重ね♫モルダウ♫を聞き、人の生き方を黙考する。
初めて、社会福祉を意識した時は単純に"慈善事業"と考えていた。大学受験に失敗し人生の敗北者のような気分の時、出会ったのが孝橋正一の『社会事業の基本問題(ミネルヴァ書房)』。良く判らなかったが"社会福祉"ではなく"社会事業"としか言わない著者に凛とした姿を見た。特に"社会事業は改良主義で社会体制変革のプロセス"の言説が心に沁みた。学生運動の時代ゆえ一層社会福祉事業の社会的価値、意義を感じその後の社会福祉事業の原点となった。それ故、従順で抗わない振る舞いが気がかり。
サービス利用者は、精一杯の努力をしても生きづらさが改善出来ない人が圧倒的に多い。だから"生きづらさ"への補填的支援が役割。それ故今の社会が当たり前とすることに疑問を持つ。たとえば"忖度"がよく使われた頃は"権力におもねる人"を揶揄したが、最近は忖度すべきところが判らないのか...と押しつける傾向が伺える。"寄らば大樹の陰"の言葉通りで一流大学に入り大企業に就職することが人生の成功者だと思い込む人が多くみられるが、やりたくない仕事を生涯続ける苦渋は本当に人生の成功者か...。だが、良い子は親の言う世界に邁進する。"人はなぜ働くのか..."とか、"人はなぜ人生を全うするか..."などと考えると、やっぱり自己表現の出来る"場"にこそ生きがいや充実感を覚える...。
それほど順風満帆な人生ではなかった...と思う。多くの挫折があった。悔しいかな権力に抗いきれなかった。それでも生き方を変えず歩み続けられたのは、自ら選んだ仕事に責任を持てたからだ。社会福祉事業は、制度や行政に従わなければ出来ない。だが、それはそれだけ公共性が高く社会性があるということ。行政に従順でいるだけなら社会で生きづらさを持ち続けている人たちの発言はいつ、どこで、だれが、どのように表現するか?社会はどれだけそのシステムを持っているのか?私たちの職業はその人たちの"代弁、媒介、治療"が役割。それは利用者1人の支援だけではなく、その人たちの集団や団体など塊としての"意思"も代弁する必要があり、社会とその塊との媒介者の役割があり、さらに治療≒トリートメントが求められる。そのためにはどこかで社会の当たり前に抗う場面に遭遇する。なぜなら、そこにある社会の矛盾が社会的課題と認識されるから、世間では当たり前と思っていることをほじくるような作業をしない訳にはいかない。かつて障害児の親が"学校に行かせたい!"と願った時、それは当たり前ではなく"わがまま"でしかなかった。だが、今や当たり前となり、国連から日本はインクルーシブ教育が遅れていると指摘されている。つまり、今の当たり前が未来も当たり前ではないということ。そこに、社会福祉で言う"ソーシャル・アクション"がある。
スメタナは多くの悲運に見舞われながら世界的な名曲を残した。祖国への想いを音楽に託して国民の感情を代弁し、国民同士を結び付けるために媒介し、美しいメロディーで治療した。クーベリックは正しいことを正しいと言い続け祖国を追われた。その間に世界的な地位を得ながら、政治体制が変わったばかりで不透明な中、祖国に戻った。それは、スメタナ同様に国民感情を代弁する歓喜の演奏、国民感情を相互に結ぶ媒介、未知に進む国民を鼓舞する治療だった。モルダウの流れはささやかな一滴から始まり、しだいに流れをせき止める障害物を打ち砕く力強さを持つ。そして大河となり大海原へと旅を続ける。
私たちは、まだ小さな流れかもしれない。しかし、多くの仲間を集め、次第に流れに抗う力を持つだろう。なぜなら、目標に間違いがないか検証する力量と体制を持ったから。もちろん、多くの難関を乗り越えなければならないだろう。だが、それも仲間と一緒であれば乗り越えられる。決して1人の権力者やカリスマがいても出来ない高みを目指していることにプライドを持つべきである。この仕事は、些細な出来事の積み重ねだからか世間的には不思議なほど評価が低い。でも、考えてみて欲しい!社会の出来事や日常の暮らしは些細なことの積み重ねでしかない。そういう現実を見据え、"当たり前"に抗う気概を持ち、自らを高みに向かわせる仲間がいることこそ、この仕事を選んだ自負である。
半世紀の時を経て様相が全く変わった社会福祉の仕事に誇りを持つと共に感謝の意を込めて、組織的役割を終わります。今日まで多くの方にご迷惑やご心配をおかけしたことを重ねてお詫び申し上げます。そして、未来に向けて発展することを願ってやみません。
本当にありがとうございました。(2023.6.16)
「読む、書く、話す」思考回路
いつしか1日1冊以上の本を読むようになった。次第に増え今は月40冊程度。高校時代、地下鉄工事で路線バスが渋滞し遅れるので早めのバスに乗った。車中が長いため読み始めると振動で目を悪くし眼鏡姿に。それ故車中で読まなかったが、40代後半に社会福祉士受験で再開。片道90分の通勤で学び、机に向かわなかった。次の勤務は小田原。横浜から東海道線で1時間。港北区居住で車中の有効活用が課題。適度な揺れが心地よく寝不足解消に最適だが、目覚めると...。そこで読みはじめた。他に煩わされない時間で集中できた。面白くなり本を探しに図書館へ。ジャンルが多様で興味が分散し広がった。すると読むスタイルが変わり自宅ではなく電車や待ち時間で読む。高齢になり朝が早くなると起き抜けの布団の中。文字を追うようで追わない時が増えた。特にドキュメントなど、内容を承知している時は精読しない。眺めつつ違うことを考える。監督、コーチの本は、法人運営、経営の話、子育ての本は療育との相関。読むのか考えるのか判らない状態は"考える種"を見つける時間だと思う。学校での習慣から記憶するために読むことが多いようだが必要性はどこまで...。忘れたら調べれば良いことなのに。だから"知る"ためではなく"考える"ために読む。
一方で"書く"。初めての出版物掲載は20代後半。子育て真最中の調査研究で二段ベッドの上に資料を積み、暇を探して作業した。書くのは嫌いではないが、兄姉の指摘を受け苦手意識満載。だが、先輩から情報発信が遅いと叱られ「理事長日記」の原型が始まった。数行のコメントと毎週の出来事を書いたが、次第に楽しさを知った。また、感想などを頂き一層の励みに。書くことで多様な角度から見る習慣がつくと思考回路が多様になっていくのを実感した。最初は毎週1回=年54回、大学ではゼミ開催時に1枚=年30回、理事長日記は月2回=年24回と次第に減ったが考える素材が膨らみ材料に困らなかった。書くことで核心を見ると思考が整理しやすくなった。問題を展開する能力を培う手段が"書く"作業。
そして"話す"。教師は"話す"のは日常業務だから苦手な人は苦痛だろう。そのような人が教師を選ぶとは思えないが、"話す"ことが好きでも話し上手とは限らない。なぜ話すのかを熟知しないと"話し"が見えにくい。これは役所時代に育った。分からない人、判りたくない人に"話す"のは大変。だから工夫が必要。工夫≒考えることだから"TPO"や"5W1H"を考え、ストーリーを持たせる。順番を間違えると判りにくい。だが、基本が判っていない学生には、聞きたいと思わせることから始める。大教室で当初、最後方で聞いていた学生が次第に中段へ。"ほう!"と思っていたら最後には最前列。最終講義終了後、"すご~っく、面白かった!"と。興味を持たせる仕掛けは、保育系学生なので"童話"を読み聞かせる時の"エキス"と社会福祉をつないだ。だが民生委員等の研修では実践例を織り交ぜる。分らない人、興味のない人がどのように関心を持つか...ずいぶん鍛えられた。
"読む"が面白くなり、"書く"が好きになり、"話す"が加わり伝える醍醐味が思考回路を育んだ。この仕事を50年も継続したことではなく"考える"を育ててくれたことに感謝。必要なのは、知識ではなく自分で"答"を導き出す力量、検証し仲間を呼ぶ力量、さらには現実に添う手法を生み出す力量が備わり物事を見極める"力≒思考回路"を育む。(2023.6)
しなやかな強さ
明治42年生まれの母は、着物で日常を過ごした時間が長い。子どもの頃見た光景には洗い張りをし縫い直す姿が記憶に残る。女学校時代にはバイオリンを弾きテニスを楽しんだ。中学生になった子どもと試合をしても決して負けないほど卓球が強かった。だが、優雅な子ども時代ではなく、女学校に入る前に母親が病死し、7人のきょうだい(弟妹)の面倒を看る母親代わりで早朝、弟をおぶって公園で英単語を覚えるのが日課だった。中学1年の1学期、病気で長期に休んだ私はすっかり英語に出遅れていた。その年、暮れの買い物にお供したら"illuminationがきれいね!"と。"...?!""あんたイルミネーションも知らないの?"と笑われた。母の選んだ職業は「電話交換士」。当時はモダンで、花形の職業。だが、時代ゆえさっさとやめ父親の部下だった父と恋愛結婚した。
10人の子どもを産み、育て、困難を極めた大陸からの引き揚げでも誰1人亡くすことなく、多くの子どもが教員、公務員。会社員は2人。母の家事は次々と片付いた。当たり前に思っていたが、今から考えると手際の良さは格別だった。50代前半で父が大病したため自宅療養中の夫の看病が日常に加わった。生来のポジティブ人間で、そんな時も明るく軽快な動きで、子どもたちがそれぞれの役割を率先してするように仕向けていた。母ががんばっていると、子どもたちはいいかげんなことが出来ない。背中で教育していた。
小学校の頃、学校の出来事を少し膨らませて話した。もちろんウソだと分っていたが怒らない。うなずいて、手を止めることなく最後まで聞いていた。話し終わるとちらっと見ただけで何も言わない。"頑張ったね!"とほめればウソを信じ、"うそでしょう!"と言えば傷つけるだけ。黙って見ている。目と目を合わせて見続ける顔はけわしかった。表情が心を表し悲しげにも見えた。黙って去ったが、しばらくして思った。お釈迦様の手のひらを自由奔放にはしゃぎまわる孫悟空のようで、何もかもお見通しだ...と。二度とうそをつくんじゃないよ!と言われた気持ちだけがくっきりと残った。10人の子どもを育てた人物は、慈母のように思うかもしれないが、本当に慈愛に満ちているということがどの様なことか理解できている訳ではない。だが、大人になってからもお釈迦様の手のひらの上...と繰り返し思った。豊かではないが、食べ物に困るほどではない。10人もいるのに、地方から親戚の子どもが上京すると1~2人増えたって変わりゃしないと思っていたようで長期滞在をさせた。寝る時は布団を取り合っていた。母はいつも子どもの姿を黙って見ていた。
父が他界した直後に糖尿病が判った。布団を押し入れにしまう時に倒れ高血圧症が分かった。尋常の値ではなく絶対安静。療養中に糖尿病が判明。当初、医師は厳重注意を繰り返したが着実に栄養学を学びカロリー計算し自己コントロール。3姉がカロリーを簡単に測れる秤をプレゼントすると毎食にらめっこで完璧な自己管理だった。同病の我が身だがとても出来ない。当時は薬が未発達だったが、最後までインシュリンを打たず人工透析もしない節制だった。己を知り、己を愛し、家族を慈しむ。どこまでも変わらない母は79歳で他界。父は幼い子を残して死ぬ間際に"まだ、死ねねぇ!"と叫んだが、母は"ありがとう!"といい他界した。"したたかで、しなやかで、凛とした"人生だった。(2023.5月②)
家族の変化と療育のパートナーを考える
年度始まりの忙しさを抜け出し、ボーっとテレビドラマ『私小説』を見た。発達障害がある小説家の話。妻のことだけを書くので"私小説"。我が妻が「どうして家族が見えないんだろう・・・」。高校時代も描かれているが家族関係ゼロ。親心は?共に暮らす家族は?結婚時の両親は?と思うが全くない。我が身も終了時「どうしてなんだろう?」・・・と。『キッチン革命』では、子どもの頃、真新しい"団地"に友を訪ね、キッチン革命の"DK"=ダイニングキッチンを見て驚きあこがれたが、この感慨が分かるかな・・・と。かつては食卓が家族像を表したがドラマの食事風景が減った。そういえば家族で食卓を囲む機会が減った。その後『グランマの憂鬱』が始まった。村人たちがグランマの家で食卓を囲むが、息子家族の住む都会では嫁姑の確執に悩む幼児が問題になっても父親不在。グランマの住む田舎に転居する"妻子"に父は付き添わない。だが、違和感なく進行し最後まで不在。男女共同参画、女性の働きやすさが社会問題化しているが家族に"父=夫=男"がいない。
30歳頃、児童相談所で"グループ指導"を担当した。障害幼児の通園施設がなかったから児童相談所に1週に一度、親子通所。年齢や障害程度に合わせ療育を行った。当時は男が仕事、女は家庭の考え方が色濃く障害児の母の就労は社会的風潮が許さず、子どもに時間を割くのが当然。法人の親子登園プログラム「はぐ」の初期には利用者が多くいたが、次第に利用者数が激減し事業廃止。そこで「ぷれっじ」で試みたが就労する家族は欠席。事業の役割や意義を捨てきれないまま終焉した。その頃、幼児の母親が参加したインクルツアーがあった。車中、お互いに知らない情報を交換する姿に驚いた。児童相談所時代の親たちは固定電話の連絡網で情報交換していたが・・・。時代は変わり親同士の連絡は皆無の様子。この頃子どもの学習塾が集団指導(教室)から個別指導(対面)に代わったことがつながった。
時代の移ろいは"サービス"に変化をもたらす。ドラマの"家族像"が変わるためには実際の家族像が反映する。これを示す言葉が"家族機能の外注化"。最近は家庭で洗濯していたものも、日常の掃除も業者委託ができる。また、"コケコッコ症候群(個食、欠食、孤食、固食)"も定着。朝食を欠食する人が増え、家族団欒はファミレスでそれぞれ別メニューを食べる個(別)食が増え、好きなものしか食べない固(定)食が増えた。また、それぞれの都合に合わせて1人で食べる孤(独)食が日常となり食卓は家族を映さなくなった。家族関係が希薄になったかどうかは判らないが、家族内人間関係に縛られない暮らし方は家族像が変わって当然。それゆえ「家族を療育のパートナーに!」なることを求められる障害福祉サービスは今まで通りではなく新たな手法が希求される。
まだコロナの残骸が気になる昨今、どのような手法があるのかを探す作業は並大抵ではないが、若者がスマホ中毒になるほどネット社会に浸っているのだから、ネットを使えば療育の情報を目にする機会は増えるのではないか。ウイズコロナの時代に学んだZoomをはじめとしたネットを利用した会議や研修やイベントを考えれば、対面の方が良いのが判っていたとしても、次善の策としてネットを利用し"家族を療育のパートナーに!"になれる工夫があっても良いはずだ。(2023.5)