日記

理事長日記

不思議なご縁

 実は一度も同じ職場にならず、直接の関係はなかった。もし同じ職場だったら一触即発だったのではないかと思う。だがいつも気になる人だった。初めてお会いしたのは20代の頃。所属施設の再整備のために、県庁の責任者が来園し説明する会議に出た。当時は、指導員が運営中心で保育士は支援中心だったから若手の指導員にも役割が回ってきた。説明を聞いた後、質問をした。課長から再整備の考え方を問われたばかりだったので、結構生意気なことを聞いたようだ。会議終了後に背の高いほっそりしたその人が近寄って"ノーマリゼーションを知っているか?"と聞かれた。間違いなくノーマライゼーション(英語)ではなくノーマリゼーション(デンマーク語)だった。承知しておらず答えに窮していたら"専門職ならノーマリゼーションぐらい知っておけ!勉強しろ!"と言われた。言い返すこともなく立ちすくんだ。しばらくしてそれがノーマライゼーションで、その後"福祉の哲学"と言われる言葉と知った。世間はまだ入所施設しか考えていない頃の話。その人は行政職で福祉職ではないと後から教えられ驚いた。それは次代への学びの一歩となる言葉だった。

 その後接点はなかったが、高齢福祉施設建設担当だった頃に障害福祉施設建設担当との交流が頻繁だった。障害福祉課長がその人だった。はたから見て進歩的な考え方の方針決定をうらやましく思った。だが、生一本な性格ゆえ担当者は考え方を受け入れてもらえず、夜な夜な愚痴を聞くこともあった。しかし、その流れはノーマライゼーションを実践しようとしていると読み取れた。行政の場の主流は行政職。しかもその人も行政職。失礼ながら異端児...。行政では、淡々と従前踏襲で仕事をこなしている人が多いと思われているようだが、考えてみれば、そのままやり続けたら新しい課題にどう取り組むのか...。問題に触れずやり過ごすことはできない。だから、勇気をふるって立ち向かう仕事ぶりが次第に好きになった。だが、他課のヒラ職員が直接話せるわけもなく遠い存在だった。その頃、(福)藤沢育成会は法人認可された。法人設立の日が1122日≒良い夫婦の日だと初めて言ったのが、当時障害福祉行政全体の責任者だったその人。

 立場が近づいた頃その人は退職に向かう年になり施設長として転出。その頃、反対に本庁勤務が増え距離が縮まらなかった。民間の施設長を経て法人理事長となった頃、一度だけ県庁にいらっしゃった。丁重にお迎えし要望事項を承った。同席した背の高い常務理事と並ぶと視線がどうしても上に向いた。後に一緒に仕事をするとは思いもよらなかった。しばらくして福祉職の同僚から電話があり、癌を患って今回最後の会合となるとの説明付きでお誘いを受けた。正直、戸惑った。一度も同じ職場経験がないのに出席して良いものか...。職場の皆さんだって違和感があろうと思ったが、強く出席を求められた。訊くと旧知の仲間たち。最後に"本人のたっての希望なの!"と言われ承諾した。行きたいのに遠慮していただけだからお誘いに感謝しかない。末席でお話を伺った姿は、病んだ体に鞭打つ感じでつらそうに見えたが常に笑顔。本当に良い時間と感じている様子で、あの笑顔が忘れられない。まさか、その後を引き継ぐとは思いもよらなかったが、ノーマライゼーションを継承する役割を担えたのも何かのご縁だったのかもしれない。(2023.3月)

"凛"としたフクシが欲しい

 以前から、ちょっと変だ...と思っていた。違和感の始まりは、若い職員が傷だらけで来た時。強度行動障害のある利用者が興奮して暴れ、爪を立ててひっかく行為に応じ傷だらけになったそうだ。職員全員が気にかけていたがその中に入れなかった。何故やらせたのか...の回答が見えなかった。利用者に応じるのが仕事だと言うが、傷だらけで受け入れたら利用者はどう感じるだろう?暴力が許されると思わないか...。エスカレートしないか...。嫌だと言えないのか...。してはいけないことをどう教えるのか...。「自己決定支援」とは何か?「意思決定支援」とは何かを理解しているか...、と疑問だらけだった。

 (福)藤沢育成会は"インクルージョンふじさわ"を目指す。それは誰もが街で暮すこと。だから、"それぞれのMy Life"も並行させる。なぜなら街で暮すとは、それぞれ自分らしく暮すことと理解されているから。それを社会福祉では"個の尊重"と言う。ひとり一人が大切にされるとは、誰もが地域で暮すことが目標。基本は利用者が地域社会の人たちと同じように暮すこと。それは"社会のルール"を守らなければ嫌がられる。でも、社会のルール≒決まりごとは、利用者には難しいことがある。だから、入所施設で暮せばいいと考えられてきた。だけど、もっと自分らしく暮したいのに、集団生活では許されない。堂々巡りで、どうしたら良いか答えが見つからない。

 でも、次第にグループホームやアパートで暮す人が増えた。身体障害者は、前から地域で暮して来たので身体障害者入所施設は少なくなった。だけど、自分の考えを決めにくい人がいる。決めても出来ない人もいる。周りの人たちと仲良くなったり、約束を守ったり、自分のことが出来ないと難しい。そこで、グループホームでは地域のことや、街の約束を代わりにやってくれる世話人さんがいる。世話人さんが手伝ってくれるので、多くの人たちが街で暮し始めた。でも街には心配がつきまとう。迷惑をかけることもある。そこで次第にごめんなさいの気持ちから卑屈になる。迷惑をかけていないのに卑屈になると、どんどん押し込まれる。そうしないために"こびる"。"こびる"を辞書で見ると「他人に気に入られるような態度をとる。機嫌をとる。へつらう」。近隣の人にこびることが地域生活を支えるのなら、施設内で顔色を見て暮すのと何が違う?!自分の部屋があるだけで良いのか...。施設を出れば良いのか...。自己決定できなくても良いのか...。次第にモヤモヤが増える。でも、やりたいようにすると施設で暮せ!と言われてしまう...。こびたり、おもねたり、へつらったりしないためにはどうしたら良いのだろう...。

 「地域生活の推進」と言いながら、このようなことを考え、話し合うことが本当に少ない。"地域で暮す"ためには、約束事が守れなければ難しい。だけど、判らないことや出来ないことがあるから、協力してもらって"地域"で暮す。でも支援は人それぞれだから、ひとり一人に"個別支援計画"がある。計画通りではなくてもその時に必要なことを手伝ってもらわないと暮せない人が地域で暮すためには、地域の人たちの理解が増えたらやりやすい。本物のボランティア経験が理解する人を増やす。だから、卑屈にならず、おもねないための仕事もある。地域生活のためにはこれらすべてが職員の仕事。(2023.3) 

"チームを創る"から「チームが出来る」に

 長い職場体験でも"ここは素晴らしい!"と思うことは少ない。もちろん、一生懸命努力するが、空回りしたり、お先走りがひどかったり、後手・後手に回るなど嫌気がさす経験をした。だが、行く前は嫌だったが赴任すると驚く仕事ができる時がある。そこにはいつも素晴らしい仲間がお互いを尊重しあう日常があった。だから意識してチームを創るのではなく、結果的にチームが出来る!初めての体感は"地域がない場だけどやってごらん"と言われた地域サービス。前年から準備に入ったのは自分だけ。研修と地域サービスが担当だった。スタッフが3人と判った時は愕然!出来ないと思った。当時は地域サービスが理解されてなかった。初年度3人で日中活動(現:生活介護)も担当。壊滅的でもやらざるを得ない。利用者に迷惑はかけられないので適当に若い職員に任せることは考えなかった。当然、業務が多く飽和状態。いつまでも事業の準備が整わなかった。それでも優先順位を決め始めると、少しずつ周囲の理解が深まり協力し合って軌道に乗り始めた。

 驚いたのは、この先の動き。同じ課のもう一方のグループが、時間を割いて協力してくれた。残業だが誰も拒否しなかった。すると、翌年から事業に専念する環境が整った。時間が確保出来るとオーダーが増えた。事業を利用した家族から他家族へ口コミで伝わった。質をリードしたのは相棒。専門領域からの"見立て"は説得力があった。同職種の若手職員の仕事の質が向上した。さらに事業を受け入れなかった居住職員から、担当になりたいとの希望が届く。SW(ソーシャルワーカー)は1人だから、SW面接以外は居住担当にお願いすることが勉強になったとのこと。やりたい気持が施設全体に生まれると生活寮から利用依頼が来た。そんな時、対象地域以外の人が利用した報告。緊急時、やむを得ないが制度的には不可。事情を説明し困ると話すと"それを何とかするのがあんたの仕事でしょ!"と!児童相談所と協議し綱渡り的対応でしのいだ。もはや園全体が"チーム○○○"となった。これを維持するため情報は出来るだけ早く流した。特に親面接は、情報の齟齬が家族との関係を崩すので、夜自宅で面接記録を書き、朝一番に担当に渡した。居住棟からも同様だった。

 もう一つはチームの責任者だった時。正直言って怖かった!務まらない...と不安だった。1年経った頃、辞めたいと職員に漏らした。"今やめたらこれまではなんだったのか!"と。転職は逃げと思い返した。彼は決して前に出ようとしないが、確実にフォローしてくれた。とても安心感があった。他にあと3人。一歩前を歩く人。正しさを探求する人。結果を出す道を探る人。4人は責任者を支え陰に陽に働いた。一方で部下を指導し、叱咤し、励まし、支えた。忙しい職場で時に精神的につらくなる人がいた。その人のために恢復する道を探りどう環境を整えるか腐心した。一方で非常勤の人たちにも気を使ってチームを作り上げた。もちろん、出来ないことも、あきらめたこともあった。でも、若者たちのアイディアを活かし、上席者と調整して成し遂げた。いつしか"チーム□□"と呼ばれ周囲からもチーム力が認められた。出来上がったものを当時の県立大学阿部志郎学長から「△長が怠慢を決めたから出来たものですね。素晴らしい!」とお褒めをいただいた。最高のほめ言葉だった。素晴らしいチームの一員でいられたことに感謝している。(2023.2月②)

"かなしばり"から解き放たれるために

 "○○じゃなきゃ、いけないんだよ!"と孫が言う。理由は判っていないようで"どうして?"と訊くと困惑した。"○○でなければならい!"ことが多すぎる気がする。どうあってもダメなことがあるのは事実だが、時代の変化や必要性に応じて変わる。言葉も時代と共に変化し変わっていく。それでも良いが、根拠を知らずに踏襲すると"貴方は?""???"。小学生ならまだ判らないんだな...と思えるが、同様の大人を見る。誤解を恐れず言うと学校が答えはひとつだと教えるので大人になっても答はひとつだと思い込んでいる...。要因、誘因、遠因を考えると"評価"がちらつく。辞書を引くといくつかの意味が並ぶが末尾に"決めること"と。しかもその例として「教育評価の略」。教育効果を"決める"とは善し悪しを決めることと同じようだ。"決める"ことが学校の日常なら、しかも自分で決める範囲が狭まれば窮屈に違いない。さらに評価が固着し児童・生徒が変化しても過去の評価を鵜呑みにし続ける。それは先生だけでなく、児童・生徒も同じようだ。

職員から"勉強は苦手..."と聞く。子どもの頃の評価を鵜呑みにし、固着させているように見える。人は変化しないのか...。どう考えても変だと思うが、金縛りから抜け出せない人を見る。我が身も"数学は苦手だ!"と思い続けている。始まりは計算問題の"0点!"。すべて小数点をつけ間違えた。衝撃的で、その後は次第に苦手意識が芽生え、自ら育み、ぬぐえなかった。しかし、仕事中に"思考が数学的ですね"と言われ困惑。数字を読み、意識した結果だが、相変わらず数式や公式は全く分らない。何のために数学(算数)を学ぶのか...と考えると公式や数式を覚えるためではないはずだが、評価は満点と零点で決定的に違う。学校での評価が自らを固着させ、次の発展を正当に評価しない。

そういえば、大学受験時にどうしても○大学に行きたいと可能な限りの学部を受験した同級生がいた。何ゆえに○大学かを聞く気にもなれなかった。何を学ぶかが全く見えないまま大学に行く価値があると思えなかった。しかし、社会的には○大学卒業のブランドは高い。人はさまざまな"評価"を受け、評価して暮らす。商品選択の自分にふさわしいかどうかなど...。だから、仕事を選ぶ時も主体性を評価する。しかし、最近は親に主体性をも委ねる人が増えた。"良い子は親の言うことを聞く!"とは、いつまで続くのか...。

 対人援助職には必ず評価≒アセスメントがある。社会福祉領域では"評価"は"アセスメント"。意味は"何を必要としているかを評価、査定する"看護系では"看護上の問題点を理論的に分析すること"心理系では"潜在的な可能性といった側面を全人格的な理解に努めること"。微妙にニュアンスが違い興味深い。学校教育でも"アセスメント"を使うかどうか承知していないが、いずれにしても"評価のための評価"≒"意味を見失った評価"になっていないか...。強度行動障害のある人たちの支援や"意思決定支援"が課題である。だが、それらすべてが同質に見える。"評価"に従順すぎる。"意思表出"に躊躇が見られる。人は必ず変わるのに評価≒傾向を固着しすぎていないか...。それは支援・教育・看護をする側もされる側も、評価を見誤っているのではないか・・・?かなしばりにあっていないか...?呪縛から逃れ本当の"自己意思"を表す時が来た!(2023.2)

仕事の流儀

 行政の仕事は決まり事が多く、誰でも同じと思っていたが全然違った。始めての管理者は先頭を走る行政マン。翌年、福祉職に変わり驚いた。"あのね!"が始まると福祉論が止まらない。正論だが出来る?...にチャレンジ。出来ることも出来ないこともあった。

 再びの行政の場では余裕しゃくしゃくの上司。ある日、行政計画を創ると言い出した。残業続きで行政計画までは...としり込みしたが断れない。ただ、福祉職としては「〇〇福祉計画」を創る仕事は魅力的。何も知らないがスタッフには経験者も、上司と共に計画を創った人もいて動き出した。だが、社会福祉専門職は2人。もう1人は初の行政の仕事で苦労の最中。聞き取りが始まると質の高い質問が矢継ぎ早に飛び出した。姿が見え始めると上司が近寄り分厚い計画書を持ちパラパラと眺める。しばらくすると"この図なんか良いんじゃないか""こっちの方が良いかな"と作図の参考にしろと言われ納得。助言者の大学教授訪問時にデパートに寄る。手土産かと思ったら靴屋。履いていた靴を脱ぎ同じものを買って古いものは店員に処分させた。ダンディーで格好つけたがる人だったがネクタイはいつも同じ。同じスーツ、ネクタイを複数買いそろえ毎日同じ姿で出勤。ある時、訊ねたら"そんなことに気を使うのは面倒!"とそっけない。毎日、麻雀と酒で夜な夜なフル稼働。付き合わされる身にもなって...と思った。退職後すぐに他界した。

 次は中学の先輩で同じ担任だった。なかなか判断しない。慎重とも言えるが優柔不断とも...。だが、専門職の考え方をよく聞いてくれた。ある日、課長の意向だからこれで行く!どう考えても納得できず違うと繰り返し説明した。判っているが変えない。苦り切って立った位置から説明書類を机に振り下ろした。すると、書類がす~っと上司の前まで、アッ!"上司に書類を投げた部下は始めてだ!"と。二度と浮かばれない...と思っていたら"飲みに行こう!"と誘われた。おしかり覚悟でついていくとラーメン屋に。ビールと餃子を頼み自分はタンメン。"そうか、飲めないんだ..."。なんで誘ったのかと思っていたが、本人は上機嫌。タンメンをすすりながらビールを勧めた。なめるように飲んでいると"自分も違うと思っているがやって欲しい"。変更できるチャンスを探り続けると説得された。その後助言者の大学教授に話して変更してもらった。若い頃、どうにも休めず歯科治療に行けずに総入れ歯になった。誠実で働き者だったが、退職後一切の関係を断った。

 計画作りが佳境に入ると上司が変わった。しかも、福祉職の相棒も変り負担増に。今度は女性、切れ者。ズバッと論理的に指摘し熟慮を重ねて最終章まで作り上げた。中途半端では論破されるから適当なことは出来ない。他業務との並行はきついが最後までやり遂げたかった。だが、やり切れずそのままにしておいたら、出来たかと訊かれ、まだだと応えた。すると"あんたは、好きなことしかしないのね!"と叱責。"だから福祉職なんです!"と言い返した。驚きも見せず"そう!"だけ。さっさと仕事を始めた。またまた"しまった!"。だが、その後も関係は良好で繰り返し話し合った。最後に行政マンらしい方法で解決して事業化に成功。定年後、先に神奈川を発ったご主人のもとに転居。今も年1度だけはがきのやりとり。こんな人たちに教わり仕事の流儀を学んだ。

"私には夢がある!"~あけましておめでとうございます~

 1964年、キング牧師は「I have a dream」と黒人差別撤廃を訴え、路線バスに乗らない「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」の中心にいた。非暴力の社会運動。1863年、リンカーンの奴隷解放宣言から100年後の出来事。"差別"とはこれほど長い時間が経過してもなくならない。1960年代、日本で障害者の当事者運動が始まった。"命を選別するな!"と訴えた青い芝の会神奈川支部の横田弘氏は、1977年、路線バスを止め"バスに乗せろ!"と訴えた。「川崎バスジャック事件」。その後も継続し今の"交通バリアフリー"を築いた。