日記

理事長日記

"収める鞘を持たないケンカは負けだよ!"

 学生時代お世話になった人が上司になった。仕事に特別の注文はなく、穏やかな日々が続いた。終戦直後、柔道着と竹刀だけ持って上京。戦後の浮浪児を収容(当時の言葉)する仕事に就いた。当時は食糧事情が悪く、"孤児院(現:児童養護施設)"ではなおさら!子どもたちが肉を食べたいと訴えたが金がない。しかたなく赤犬なら大丈夫と...食べたという。また、風呂に使うマキが足りず枕木を取りに行ったと笑う。眉唾じゃないか...、イヤそうしなければ生きられなかった...?そんな逸話で周囲を笑わせるところがあったので信ぴょう性は不明。また、「保母試験」の採点で児童相談所について"児童の相談する所"の回答に"△"。間違いじゃないかと聞くと、間違ってはいないと。そうだけど...、二の句がつけなかった。

 ある日、職場近くの飲み屋で話しをしていると店主がつまみを1品多くだした。"よく頑張っているってね""ええ?""よく来てくれるんだよ""誰?""課長さん!""そう?""息子のことで世話になってね!良い人だね!""そうですか..."。施設に相当好感をもっている。歓送迎会で仕出し屋に予約すると予定をやりくりしてくれた。当日、店に伺うと"課長さんは?""後から来ますけど、どうして?""いやぁ、本当にお世話になっているんだ!""良い人だよね!"。どこでも課長さん、課長さんと言われるのに1年いらなかった。床屋、八百屋..."課長さんは?"と。自分の時間を使い街の人と話し仲良くなり、地域の社会資源を利用し、街に溶け込んだ。剣道4段、柔道も有段者。見事な筆使いで文字を書き、得意がることもなく自然体。しかし、酒が入ると下ネタも混ざり周囲を和ませた。恐妻家だというが早く帰宅する様子もなく、夜な夜な酒を飲んでは人々を和ませた。地域との関係が増え、施設に好感を持って頂き、街との接点が変わり挨拶を交わすようになった。

 ある日、成人した利用者の母親と相談し、自宅から通所すると決まった人がいたが、保母長(今はない役職)が母親と話し"心配..."と。母の心配に配慮しそれも含めて相談してきた。頭越しの行為に憤りを覚えた。方向性が間違っているとも思えなかった。相当な怒りの中、問いただした。礼儀を失しないようにと思っていたが後から思えば問い詰めるようだった。答弁はしどろもどろ...。その時「○○ちゃん、収める鞘を持たないケンカは負けだよ!」と声がかかった。続けて巌流島の話。拍子抜けしたが、佐々木小次郎が刀を振りかざす時、鞘を捨てた。剣豪宮本武蔵が勝利したのは、そのすきを見抜いたからだという。

 若さゆえ、怒りに任せて訴え続けたことをさらりと諫めた言葉が忘れられない。人と人の関係は、どうしてもどこかで対立を生む。何となく気まずいこともある。どんなに正しくとも相手を非難し続けてはいけない。頃合いを見つけることを"鞘を持つ" ...と。その直後、保母長が非を認めた。だが、実に後味が悪い。この後味の悪さを何度味わっただろう...。老いてなお我が身を収められないと振り返る。一方、怒りはエネルギーであり、失うとうつろな目になる恐れを抱く。人間は本当に難しい。生きるに差し支えないことに怒りを覚えないが、物事の重要性が増すごとに怒りを覚える。穏やかな人柄、大胆な振る舞い、ひょうひょうとした仕事ぶりが心に残る。それにしても"収める鞘を持つ"のは難しい...。

「理論値」と「臨床値」

 大卒後の進路相談で兄から「社会福祉は実践科学じゃないのか?」と、問い返されたことを時折思い出す。大学入学時の「社会福祉学研究会」入部レポートで"車の両輪のように理論と実践が伴って社会福祉・・・"と書いた。研究者になろうなどと思っていなかったが"親切"が社会福祉だとも、"善意"が社会福祉だとも思っていなかった。困っている人の役に立つことは、する側の勝手だから違うと思っていた。だから、世間から見ると"親切な人""優しい人"と言われることが嫌だった。

 社会福祉制度はどこまで充実すべきかが難しい。困っている人を助けてあげる...と言う考えが好きではない。困っている人が生来の怠け者だったら助けて良いか・・・?『善意で貧困はなくせるのか?(みすず書房 D・カーラン&J・アペル著)』の冒頭に、僧侶が漁師から魚を買い取り海に戻した行為は正しいか...と。わずかな魚を海に返し"殺生はいけません"の教えを守ったことになるのか...?人は動植物の命をいただき生きている...?やらないよりやった方が良い...?突き詰めると"優しさ"が判らなくなる。神奈川県立保健福祉大学名誉学長・阿部志郎先生の"しさとは、うと書く"の言葉の深さを想う。

 社会福祉の始まりが"優しさ≒善意"なら、善意で問題解決できますか...と。それでは問題解決が難しい現実がある。しかし、善意から始まる...。だから、何かを加えないと解決のエネルギーが生れない。必要なのは"その善意、本当に役にたっていますか?"の問い。的確であれば良いが、してあげたい...では成立しない。だから"人を憂う..."の奥が深い。その人が判らないと善意が意味を持たない。「虐待としつけの狭間」は"しつけ"と考えている。接頭語"お"をつけると丁寧語。丁寧な善意は押し付けで虐待の始まり...という皮肉。だから"困り事"の構造が判らないと人を"憂う"ことにならず、困っている人の問題解決が出来ない。助けたと思った人を混乱に追いやったり、出来ることをしてもらっても良いと学ぶ...。だから本当に困ったことが判らないと優しく出来ない。でも、同じことを困っているAさんとBさんに同様に援助すると、Aさんは喜んでもBさんが喜ぶとは限らない。なぜなら、AさんとBさんでは居住環境や家族事情などが違うから。だからいつも答が変化する。また、今困っていても明日になるとまた変わることもある。

 考えてみると、個別な事情に全てフィットする制度を作るのは困難。だから、制度に当てはめるだけでは解決しない。故にケースワークがある。ケースワークは個別の課題を解決する糸口を一緒に考える技法。他にも社会福祉の技術がある。地域社会や、家族、その人自身の問題等を考えながら的確に、合理的、論理的に糸口を見つける。だから選びきれないほどバリエーションがあり複雑怪奇。そのため問題を整理する基礎知識が必要。さらに"出来る・出来ない"を理解する。だからソーシャルワーク技術がないとアプローチが難しい。これが「理論値」。でもそれだけだとサービスに当てはめようとする。人に添うために藤沢育成会では"それぞれのマイライフ"と言う。その人に合う方法を一緒に考えるのが「臨床値」どっちがなくても、どちらかが強くても、優しさがあだになりかねない。理論値を臨床値に置き換えられる力量のある人が社会福祉の専門職だと思う。

"ねえ、ここ高速道路じゃない?!"

初めての職場からの転勤がなかなか出来なかった。忘れられた...と不貞腐れた。だが、毎年の異動で新たな体制になった。幹部人事など気にならなかったが、直属の上司は気になった。異動した上司の後任はアルバイト時代の主任だった。熱血漢で大男。剣道の有段者で高校時代、稽古着で災害救助に行き、大学のBBS(注)活動でこの仕事に誘われた。 バイト当時"焼却炉"があだ名。子どもたちはよく考えるな・・・と感心した。好き嫌いなし、食べ残しなし、魚は猫マタギ。残さず食べる指導があった時代ゆえ実に説得力があった。

 保育士中心の女性だけが支援現場にいた時代から"同性介護"に変化する移行期で、男性職員が少し増えた頃のある日、上司から呼ばれた。"明日、6時出勤!""エッ!明日遅番です"。"だから!マラソンの練習です"。早番以外の男性職員は全員集合!朝6時に行くと男性職員が数人いた。担当の利用者を起床30分前に起こし連れていた。準備体操後ロードに出るとの号令に従い最後尾で走る。人込みを避けるように場所を移した。"えッ!ここ工事中?""大丈夫?"の声がしたが、先頭の熱血漢はお構いなし。施設に戻ると"今日は良いコースで走れた!"と。"建設中の高速道路じゃないですか?""そう・・・""大丈夫ですか?""まあね、見つかったら間違えました!って、帰れば良い"という。確信犯?!だが、舗装したての道路を走った選手たちは気持ちよさそうだった・・・。選手を寮に送り帰すと"朝飯!"と。病院の夜勤者が朝食に利用する院内食堂は外部も入れるが利用客は少ない。食事を選んで着席すると"朝食ミーティング"。練習方法、行事企画、施設運営等を意見交換。先輩も、後輩もなし。具体的な話から将来像に至るまで話し込んだ。もちろん若者の集まりゆえ恋愛談義にも花が咲く。熱血漢は勤務時間ギリギリに出勤。だが、話しが弾むと遅番たちはそのまま残った。それに付き合いそのまま勤務。すると朝6時から夜8時半まで勤務?きつい"通し勤務"だが、嫌とも、疲れたとも思わず多くの若手が集った。もちろん不参加職員もいたが、それで仲間はずれにはならなかった。

 熱血漢はいつも先頭を走った。ついてくるものだけを見ていた訳ではなく、確実に先頭を走っていた。そういつも走っていた。それは無理ですよ!と訴えたこともあったが、いつもやり遂げた。たとえば、創立記念にモニュメントを作ると言い出した。敷地内の広場は集合場所だったが、日差しが強く藤棚を作る・・・と。素人では出来ないと思い断念するように進言したが、材料を買い込み作業開始。職人姿の熱血漢は、既に様々に学び、水平器なども持ち出し職人の動き。それを若手が手伝う。柱が立ち上がるとコンクリートが固まる前に一番上にサインしようと号令!梯子に登りおぼつかない足元で自分の名前を刻んだ。

これが正しいとは思えなかった。そこまでしなければいけないとも思えなかった。万人がやれなければ次世代に伝わらないとも思った。しかし、仕事と言うよりは、自らに与えられた役割にどこまでも向き合う姿を背中に学んだ。若い頃だからできた。今は無理。また、社会が許さない。だが、何かを求める時、これほどの集中力が必要なんだと叩き込まれた。人は給料のためだけに仕事をするのではなく、この仕事を必要とする人たちが待っているからする!といつも熱血漢の背中が言っていた。

(注)BBS:Big Brothers and Sisters Movement

少年少女たちに、同世代の、いわば兄や姉のような存在として、一緒に悩み、一緒に学び、一緒に楽しむボランティア活動。その名は、今から訳100年前にアメリカで始まった、Big Brothers and Sisters Movementにちなんで名づけられました。(日本BBS連盟)

大いなる誤認~日常を見失った支援

 50年も前の話しで恐縮だが、当時はまだ入所施設(当時は収容施設と言った)だけだった。日中活動の教室は曇りガラスで薄暗く辛気臭かった。光が多く差し込むことや外が見えると集中力が落ちることに配慮したと聞いた。そこでは"治療教育"と称した。今ならTEACCHプログラムの"構造化"だろう。その後、オペラント療法に出会った。課題をクリアすると少しおやつをあげる姿に"餌付け?"と思った。訪問学級講師(施設への派遣教員)からペットを躾ける話しが参考になると聞き侮辱された気がした。仕事を始めた頃はこのような話が多く、彼らの出来ないことばかり見ていた。そこは精神科病院に入院した戦災孤児に、ふさわしい教育を受けさせるべきと考えた菅修院長が創設した県内初の施設

 しばらくして清水基金の賞を頂いた『週末帰宅のアンケート調査(精神薄弱の研究第13集)』。それより前、県社会福祉事業発表大会(当時)で、助言者から"君は教育を知らない!"と酷評された。収容(現:入所)が当たり前の時代で外出の発想は乏しかった。だが、教育は、社会生活に向かって人が社会的成熟をするためのプロセス。当時は言語化できなかったが"違う?!"と感じた。目的を失った行為は、行為そのものが行先を見失い効果を見落としがちになる。このようなことに浸っていると落とし穴にはまり本来の姿を見落とす。

日本初の知的障害児施設は「滝乃川学園」。立教女学院の教頭が濃尾平野地震で被災し、身売りされた知的障害女児を見かねて作った。創設者・石井亮一は米国留学でセガンに障害児教育を学んだ。「すぎな会愛育寮」は教育者・小杉長平がソニー井深家の寄付で創設。「近江学園」等の田村一二も池田太郎も教員出身。近藤益雄は卒業生の行先がないと憂い「のぎく寮」を創設。教育者が今日の施設を創った歴史がある。一方、冒頭の施設は精神科医、「三田谷学園」創設者も、「八幡学園」出身の山下清の親代わり・式場龍三郎も精神科医。医療と教育を合わせ"治療教育"。東大教授だった高木憲治(整形外科医)の"療育"。

 その後、成人年齢に達した児童が増え"過齢児"問題が顕著となり児童入所施設を成人入所施設に移行した。しかし制度上はクリアしても人間関係はそのまま固着した。子どもの頃にお世話になった"先生(当時はそう読んでいた)"が直接支援したため、いくつになっても子どものままの支援だった。子どものまま法的に大人扱いされた。この環境では"療育技法"に長けている職員を専門性があると評価した。加えて障害児のお世話をする人≒善意の人との社会的風潮が固着しているためこれを顧みなかった

 しかし、知的障害児者入所施設は、間違いなく寝起きする場である。それはプライベート空間。規則、指示、出来ないことを見られ評価され続けるプライベート空間では到底リラックスできない一般的なプライベート空間と同質の"場"が必要で、"先生"はいらない。必要なのは、ともに暮らし必要なだけサポートをする人。それ以上はやりすぎ、それ以下はサービスの価値がない。障害特性や個性を承知して暮らし向きを支える人。だから支援者は"生活者"でいたい。しかし、障害ゆえ難しい社会とのおりあいをつけるために社会的基準≒社会的スケールを持つ必要がある。療育のプロではなく、社会的スケールを持つ生活者だ。それが支援者だと理解しなければ、施設支援の意味を見失う...

"職人的"児童指導員

初めての職場は県内最初の知的障害児入所施設だった。当時、施設利用は大変だった。それは社会資源がなかったから。鍵の束を持たないと施設内を歩けないほど鍵がかかっていた。"動く重心"と呼ばれていた多動児がいたので、重度棟と呼ばれていた場所では、鍵をかけていた。初めての時"安全を確保し、自由に動ける大切な場"と説明された。なるほど自ら危険を回避出来ない。しかし、四六時中ついていることも出来ない。そこで居場所を確保するための苦肉の策...と納得した。多動児はグラウンドに出ると一層多動になった。それは解き放たれた時の衝動だが、当時は分からなかった。説明してくれたのは初めての上司。気さくで明るく体を動かすことをいとわない人だった。

 日々の仕事が始まり1か月程の時、一般棟と呼ばれる比較的軽度の人たちが暮らす大食堂(100人弱)で食事量を示す掲示板の数字が遠くて見えず、配膳に苦労するので"数字をビニールテープで色分けしたら利用者も出来る"と提案した。すると机の引き出しからお金を出して"今すぐ必要なものを買ってこい!"。提案を受け入れてくれた上司に感謝して買物へ。今考えると、公金?ポケットマネー?それとも何??不思議な話だ。ただ、提案がその場で聞き入れられた事実だけが残って、その後の仕事ぶりに大いに影響を与えた。ギター、アコーディオンなんでも独学で学んだそうだ。子どもたちに絶大の人気があり、アコーディオンをもって姿を見せると自然に子どもが集まり、楽しそうに合唱が始まる。娯楽が少なかった当時、子どもたちとの接点を作り心の垣根を下げる手段として有効だった。自分も何かのツールを持ちたいと思ったが、にわか仕立てでは出来なかった。

 秋は行事が目白押し。その中核の運動会は毎年10月10日。前回の東京五輪開会式を記念した「体育の日」だった。毎年同じ日だったので、卒業生や親たちも来園した。飛び入り参加も出来る綱引きやパン食い競争、仮装行列があり準備に熱が入った。当時は行事以外にお楽しみとなる地域からのお誘いなどなかったから、家族まで力こぶが入っていた

前日、上司からグラウンドのライン引きを指示されたので、レイアウト等を参考に計測し、基点を作って下書きした。ようやく白線を半分ほど引き終わった時、様子を見に来た上司が"何やってんだ!まだ出来てないのか!しょうがねぇな!こんなの勘でやるんだ、勘で!"とライン引きを取り上げさっさと引き始めた。計測したラインは全く無視。腹が立ったが、仕方なく眺めていた。見事に出来上がっていくのだ。その速さは尋常じゃない。計測しないんだから早いに決まっている。アッと言う間の出来事に唖然としていると、ヒマラヤスギの小枝を20本ほど選び半円を描いているコーナーにほどよい間隔で刺し始めた。すると緑が映えてコーナーをくっきり示し目印になった。ただただ、お見事!出来上がるとさっさと立ち去った。ここに20年ほど働いた上司は、見なくても見えていた。仕事上の"勘"は誰も追随を許さなかった。それだけ存在感があった。今ならこの仕事のやり方は通用しないだろう。でも、したたかで、確実に仕上げてしまう上司を見ほれたのは確か。初めての施設でこのようなことを教わった。私の中の記憶は"職人的な仕事ぶり!"。だから、エキスパートとしての存在感は今も変わらず鮮明!

人はなぜひとを「ケア」するのか

ずいぶん前に『人はなぜひとを「ケア」するのか(岩波書店、佐藤幹夫著)』を読んだ。養護学校教員だった著者が父親を看取った時の思い出、葛藤・・・などから"どうして人を「ケア」するのか・・・"と問う。自らの老いを感じるようになったからか・・・。長く知的障害者とかかわったからか・・・。‟意思決定支援"と言れわ始めたからか・・・。既に50年もこの仕事に従事したのだから答えが出ても良さそうだが相変わらず言語化できない。この間、忘れられない出会いは一つや二つではない。だが、"意思決定支援"となれば、次のふたつを思い出す。"過保護"と"過干渉"。間違えないでほしいが、2人とも母親は本気で心配し必死で守ろうとしていた。家族も協力的で表面的にはなんで親子関係が問題なの...と思わせた。

A君は激しい自傷行為があった。頬を叩き続け結果的に鼓膜が破れるほどの自傷行為は初めての時驚きを隠せなかった。家族は叩かせまいと必死。手を握り続け、よだれは他の家族がふき取った。言語なし、ADL全面介助の最重度で思春期真っ盛り。だが、家族と離れたプレイルームでは自傷行為が見られない。面接後、心理担当と"過保護"と見立てた。一時入所すると全く自傷が見られない。A君からは見えないように母親に様子を見せると驚きを隠せなかった。面接を繰り返し家庭での対応を学び、母親中心に家から事業所通所が出来た。B君の場合は、当初の相談は弟の夜尿。それはB君の家庭内暴力が激しく暮らしが不安定だったことが原因だった。それでも排除せずB君の課題に取り組んだ。この時の仮説は"過干渉"。面談を繰り返すと母親が精一杯の努力で良い子にしようとしていた。だが、その時B君は思春期真っ盛り。賢い母親は強いやり方に気づき慟哭の時を迎えた。精一杯の努力で家庭からの通学を試みたが家族の状況もあって施設入所となった。

 問題はかかわりを持つ側≒ケアする側。人は生まれた時は全面介助。"第一次反抗期"を迎え様々にチャレンジし、失敗しつつ学びADL自立への道を歩む。次に"自分らしさ"を見出だそうともがき苦しむ"思春期"。訳の判らないモヤモヤは答えを見出だせないもがき、葛藤。障害ゆえ発信が弱くモヤモヤの表出が苦手。TEACCHプログラムのCはコミュニケーション。自閉症(A)やコミュニケーションが苦手な子ども(CH)のための教育(E)と治療(T:トリートメント)。人は成長と共に第二次性徴が始まり、モヤモヤが心的葛藤となり内包し深まる。だが、家族は発信力が弱く、ADLも未自立な子どもは幼児扱いから抜け出しにくい。一般的にも変化する子の発信にたじろぐ親がいるが、発信力が弱いと親は庇護の対象から抜け出しにくい。それゆえ幼児期と変わらない"ケア"を続ける。さらに様々な葛藤が親子関係、兄弟関係、その他のことも含めて問題を複雑にする。

 "ケア"とは、相手がだれであれその人の"意思"を聞くところから始まる。最近"高齢者は..."とよく耳にする気がする。一括りにされると自らの尊厳を侵害された気になる。ケアの最重要課題は"意思に添う"。"ケア"は"意思"を聞き取る力。あえて"意思決定支援"ということに専門職は恥じ入るべき...。なぜ人をケアするのか...の答(応)えのひとつにケアの相互性...コミュニケーションの質と量がある強度行動障害という現象ではなく、原因をコミュニケーション能力で探れるケアをしたい