日記

理事長日記

最近、救急車少なくなったね...

特別養護老人ホーム建設担当の時、何度も「説明会」を開催した。どこにもある話だが"総論賛成、各論反対!"に悩まされながら丁寧な説明に心がけた。それでも、反対とは言わないが"仕方がない..."の空気が残った。ここまでで転勤したので、その後の様子は知らないが数年後スタートした。

 しばらくしてその特養に転勤した。児童、障害と施設、行政、相談機関に転勤した後だったので特養でも未知の世界とは思わずに赴任したが別世界だった。基本的に次へのアプローチが希薄。知的障害福祉も社会的養護も原則として"自立"を促す。つまり、次へのアプローチがあった。しかし、失礼ながら施設内にゆったり、まったりした空気が漂い、職員も伝染したように同様の空気が...。この解消はとても難しい...。

 施設は基本的にチームで仕事をする。だから、個人の資質が弱いとチームはどんどん安きに流れる。何故なら"暮らし向き"の支援は最低限度を明確に示せないから。例えば、自分の"暮らし"は、日々"まあ、いいっか!"で我慢するが、他人の"暮らし"は痛みを伴わないので無感情で安きに流れる。そして、一度限度を超えると最低ラインは下がり続ける。だから"ミッション"が大事で、"モチベーション"を持ち続ける仕掛けが重要。

 しかし多くの場合、日常業務に追われモチベーションのための仕掛けなど眼中にない。そうなると利用者には許しがたい行為の連続で、何とかしようとする職員はいたたまれなくなる。次第に利用者の健康管理もおろそかになるが、事件ではないので気づかないふりをする。そこで心ある職員と共に少しずつ取り組み始めた。やり過ごしていた日常から全体で"よし!やるぞ!"と意識するには時間が必要。当時は"身体拘束廃止"が社会的課題だったので、これをミッションに掲げ、職員の工夫を具現化。最初は「ヒヤリハットを見逃さない!」から始め、統計で傾向を示した。それが足掛かりとなると職員が作ったデータで改善出来た実感がさらなる展開を生んだ。その間も地域との交流はあり、町内会の行事に必ず出席したが、声もかけられず地域交流が図られた印象は薄かった。

 職員の努力で身体拘束が全面解消された頃、施設のお祭りがあった。庭一帯に屋台を出し、バザーもあったので地域の人や家族の参加でにぎわった。地域の人たちがテーブルを囲んだ場に近づくと"ちょっと、ちょっと!"。不都合があったかと心配して近寄ると"最近、救急車が来なくなったね!なんか、変わったのか?"。意味が分からず当惑したが、頻繁に来ていた救急車が極端に減った話だった。"事前に体調の変化が判るように注意しているだけです..."と。地域の人たちは、"いや~ぁ、よく頑張っているよな!"と、声をそろえた"あ~ぁ、よく見てくれているな..."と。"ありがとうございます。これからもよろしくお願いします"。と挨拶してテーブルを移動したが、心がほんのり温かくなった。身体拘束廃止など地域の人には伝えていないし、見学する人もいないのに見えていた。これが近所付き合いだと思った。その後、緊急時の夜間避難等でご協力いただける話や、地域の人も含めた食料備蓄を施設側がするなどの話を聞き、また心がほんのり温かくなった。地域との交流とはこのようなこと...と、名前も知らない人に教えていただいた。

「ドラマに"フクシ"をみる~社会的スケールを考える」

 放送中のドラマに『となりのチカラ』がある。お隣さんの諸問題に主人公のチカラがあれこれと首を突っ込む。近頃珍しいおせっかいだが、どこにでもありそうな話しが"フクシ"のトレンド。心配な親子...これは「子ども虐待」???認知症の祖母と暮らす高校生。それは「ヤングケアラー」や「認知症ケア」。また、外国人数人で暮す部屋に日々異なる男性が出入り。介護福祉士の資格を取ろうと入国後、何らかの理由で働けなくなりマッサージの営業。これは「外国人労働者」の雇用環境や地域福祉の問題。表面的ではあるが、日常の中にある社会福祉の課題が山積している現代を表す。

昨年暮れに終わった『ヤンキーと白杖ガール』。原作はマンガだそうだ。弱視女性とヤンキーの話だが、ドラマの中で自称、視覚障害者の芸人が暮らしにくさを説明。ヒロインは後天的な弱視、盲学校の友達は先天的で視力ゼロ。一方にヤンキーの生い立ち。幼い頃に親が行方不明、暴力で強さを示すことが生き残るすべになった。これは「社会的養護」。なぜ児童相談所が介入しなかったのかと考えるのは業界にいたからだからだろうか...。

社会的養護のドラマはきれいごとが多い。それは社会が十分理解出来ていないからだと思っていたが、2014年の『明日、ママがいない』は本質をついていた。ところが突然CMが中止。児童養護施設団体から「イメージダウンになる、真実と異なる」と苦情がありスポンサーがすべて降りた。だが、職員の高圧的な態度と裏にある苦渋の心情。養子縁組を求める子どもと、それを斜に構えて見る子どもの姿は現実だと思った。芦田愛菜、鈴木梨央など、子役の好演は施設で暮らす子どものゆらぐ心を見せた。窮地での一致団結も。どうして施設団体は反対したのか...。たとえば、裁判官が突飛な言動をとる『イチケイのカラス』に裁判所からクレームはない。警察の失態をドラマ化しても警察庁から注文はない。たかがドラマ、フィクションだと流すのだろう。そうであれば"フクシ"は...。

施設育ちのその後の話しが、今放送中の『ファイトソング』。今国会で審議中の問題"フェアスタート""アフターケア"を表す。だが、園長はここまで卒園生に関与出来ない。特別な子への特別な配慮を描くと真実をはぐらかしかねない。ヒロインは聴力障害を予測される病にかかる。中途障害の女性がヒロインの未来を表す。先天的な聴覚障害は、言葉を聞いたことがないため発音がとても難しい。中途の場合は聞いていたので先天性より発音しやすい。しかし、次第に忘れるので時間とともに発音が悪くなるそうだ。だから鮮明な発音の会話は違和感を覚えるが...。

社会福祉の従事者は"善意の人"と見る社会。他方"障害者だから..."と出来ないことを前提に見る社会。しかし、誰もが"人"として社会で暮す。そこに人としての"尊厳"がある。だが、障害者は守られるべき存在とするステレオタイプな誤解、それに便乗しやすい環境がある。それでも原点は"個の尊厳"それは守ってあげるのではなく、その人らしく生きること。だから(福)藤沢育成会は「インクルージョンふじさわ」と「それぞれのマイライフ」を志向している。それ故"社会的スケール"のある支援を【意思】をもって進めたい。

「人生のはじまり...」

 この仕事は"世の中は不条理だ"と思うことがある。児童福祉司でもめったに「棄児」に出会わない。棄児とは"捨子"。戦後の混乱期までは珍しくなかったが、高度経済成長後はほとんどいないのにたった2年で3件の「棄児」に関わった。

 戦後の動乱期"混血児"を収容した施設には入り口にトンネルがある。裸電球が数個着いた場は社会とのへだたりを感じた...。そこに新生児が放置されたと通報があり、急行し赤ちゃんの保護と健康チェック。入院している間に暮らす場所を探す。いわゆる"社会的養護"の典型。当時は判りにくい障害の有無等を考慮し乳児院入所が一般的。その時、子どもは存在していても公的に認識されていない状態だから就籍が必要だが"名前はない"。発見された地の役所で戸籍をつくる。制度では首長が名付け親になるが、窓口で「いくつか案を作ってくれませんか?」と。名前を考え窓口に行くと「判りました、これで手続きをします」。名前は漢字一文字を提案したが、その下に"一"。首長が"1人で生きていくんだから..."と。乳児院入所が完了し職場に戻る時"1人で生きていく..."...と思った。

 国際養子縁組が成立し海外に養子となって出国した子がいた。南米から来た日系の子。母親のビザに記載され入国した。当然、ビザの持ち主が母親と思ったが、友達に頼まれて親戚まで連れていって欲しいと言われただけだと主張。かたくなで結婚のために来日したという。とうとう棄児として児童相談所が対応した。法的にも難しく、このようなことにキャリアがある施設にお願いした。母親も親戚も現れないまま子どもは日本に慣れ、すくすく育ったが風貌は明らかにハーフ。二枚目顔だったが、当時はまだまだインクルージョンされていなかった。その後、国際養子縁組が盛んな国へ出国した。どのような気持ちだったんだろう...、親の行動が子どもの人生を翻弄した。

 施設の前で黒人の赤ん坊が保護された。女子。病院で1週間の検査期間を過ごすため移動した。一週間後の乳児院入所も決定。元気な鳴き声だった。乳児院長はシスター。命名から始まるのを承知で"今日は聖クララの記念日です"。"クララ"と命名したい意向。だが"氏"がないので院長に相談すると"それはもう、貴方の名前でしょう!"と。えっと、思ったが、既に当然の成り行きの状態にどぎまぎしながら手続きした。

 ひとりの人間が誕生する時、今は父方や母方祖父母がそろって産院に向かい、喜び溢れる様子が当り前だが、"棄児"はその時から孤独。戸籍の親の欄には非情にも"不詳"。既にハンディキャップがある。それでもこの子等は存在がある。「無戸籍児」は、社会的存在すら認められていない。だから、子ども家庭福祉サービスすら受けにくい。社会的養護児童は、高校卒業と同時に"孤独"になる(現在法改正審議中)。今や高校を卒業する7~8割が進学。だが、児童養護施設の子どもは2割前後。親不在だけで十分すぎるハンディにも関わらず、就学の機会にも重いハンディ。これをフェアスタートが出来ていないと言う。"フェアスタート"を求め続けているが、これを承知してから30年も経つが訴える人が少ない。何故なら、この子たちに気を配る大人が少なすぎるから。親がいないとはこのようなこと。今となっては、彼らがより良い人生を歩んでいることを願うばかり。

"障害者って、何?"

休日の遅い朝食時にラジオから"ホームドア"の話題。視覚障害者がホームからの転落を防止するガード。10年以上前に駅のエレベーター設置業務にかかわった。1976年に「臨港バスジャック事件」で横田弘氏等が路線バスを止め車いす利用者の乗車を訴えた。これを機会に神奈川県は当事者団体と交通バリアフリーの協議を重ねた。当時は車いす利用者は公共交通機関の利用が難しかった。今は駅のエレベーターは当然になり「福祉の街づくり条例」の言うように"障害者が住みよい街づくりは、誰もが住みよい街づくり"で高齢者やベビーカーの親子も便利になった。

"ホームドア"は、"視覚情報"にハンディのある人に有効。視覚障害は"見えない""見えにくい"だけでなく"視野狭窄"の人もいる。広角に見えるのが人間の目だが疾病等により見える角度が極端に狭い人がいる。このような障害の人にもホームドアは命綱だろう。当事者によると多くの視覚障害者はホームからの転落、または転落しそうになった経験があるという。見えない障害の恐怖である。次に聴覚障害、"聞こえない障害"の人は音声情報を獲得できない人たち。"見えない障害者"と呼ぶことがある。確かに聴覚の障害は他人から見えない。しかし、音声情報がないと事故などの急変時に、人々の波に応じきれず危険を感じるそうだ。この時文字情報が目に入れば大いに役立つ。しかし、人の波の中で文字情報を獲得するのは至難の業。だから文字情報が流れる掲示板の近くで待つのだろう。それは社会生活上の不自由か...。また、最近は改善されたが、車中でのケータイの通話を遠慮するよう案内が流れる。多くはマナーの問題と理解しているようだが、当初は心臓にペースメーカーを装着している人の装置が狂うことが理由だった。ケータイが出始めた時、ペースメーカー使用者から"電車は恐くて乗れない"と聞いた。身体障害にはペースメーカー、人工肛門、人工透析などの"内部障害"があり困ることがそれぞれ違う。人工肛門の人は"みんなのトイレ"が必須。一般的な車いすトイレでは難しい。だが、まだ精神障害者も、知的障害者も、発達障害者も書けてない。たとえばトイレで考えると同性介護が当然の障害者支援だが、思春期を迎えた知的障害者の男性に同行した母親が公共トイレで介助が必要な時がある。親子で地域を歩くにも弊害があるということ。しかし、これを社会的問題に出来ていない。一般的に男女別のトイレが当然だが、LGBTQの人たちはどうしているか...。女性の姿で男性トイレを使う人はいない。しかし、男装の女性は?最近、北欧で男女別ではないトイレが出来たと聞く。LGBTQの人たちに配慮したようだが、思春期に入った知的障害者の親子にも朗報だろう。

 ことほどさように"障害"は多様だが、1障害だけで"障害福祉の専門家"だと思う人が多い。障害者基本法では身体障害、知的障害、精神障害を3障害としているが、その後に"その他の障害"とある。サービス受給者としての"難病"の人たちなどだが、難病認定者には"障害者"といわれることに違和感を覚える人もいる。国際基準では"ギャンブル依存症"の人は精神障害に含まれが、彼らの多くは障害者の認識は無い。国際的に日本の障害概念は狭いがそれを認識する人は少ない。だから!"障害って、何?!"。

"ねぇ、ビデオ借りに行こうよ..."

初めての成人施設でリーダーを受け持った。ローテーション勤務ではなく、集団を束ねる役割は、利用者との接点が少なく関係性を創ることが難しい。しかし無視すると暮らしぶりが判りにくく、職員へ適切に話せなくなる。だが深く関わりすぎると職員がやりにくくなるので実に難しい。年上の職員だとさらにやりにくい。

そんな時に50歳手前の利用者が近寄ってきた。腕時計を見せて"いいだろう!"と自慢げに話す。職場実習時の収入で買ったらしい。たっぷりと時計を褒めた後、"ところで何時?"と聞くと"それを言っちゃ、おしめえよ~っ!"と立ち去った。近くの職員に訊くと時計が読めないことがわかった。確かに"それを言っちゃ、おしめえよ~っ!"だった。

夜勤者が急に休みになった夕方、誰が夜勤者になるかを繰り返し聞くので自分だと告げると"ビデオ...、ビデオ、借りに行こうよ""どこまで...""いつも行くんだよ、近くにあるよ!""いや、仕事中にいけないよ""いいじゃん、ちょっとだけだから...""何借りたいのさ...""だからさぁ~"言いにくそうだ。"ね、ね!だから...、エロいやつ...""いやぁ~、今日はダメだよ...""なんだよ...いいじゃん..."と舌打ちしながら立ち去った。

 親近感を覚えたようでいろいろ話すようになった。ある日、"俺、仕事してたんだよ!"と話し始めた。豚のお世話をしていたというから養豚場で働いたようだが、社長が怒って解雇されたと首の前で手のひらを横に引いた。理由を聞くと、豚が泳げるかどうかが仲間内で話題になったので、率先して川に追い込んだそうだ。"そう..."と、あとは言いにくそうだったが"トンシ!とん死しちゃったんだよ!"。だから社長が怒って"首だ!"と怒鳴られたそうだ。本人は"トン"が"豚"と掛け合わせてあることにはとんと気づいていなかった。ただ周囲の人の言葉をそのまま記憶していた。真顔である。だから、俺は職場実習には絶対いけないと付け加えた。職員が可能性のある彼に自信を持たせ、せめて就労系の施設での活躍を期待していたので予防線を張ったようだった。

 そこで施設近くの八百屋に相談し、1日2時間、段ボールの片付けを受けた。解雇経験からなかなか承諾しなかったが、2週間だけ試してみることにこぎつけた。2週間はあっという間で実習は大成功。継続依頼が来る頃には彼も自信を取り戻していた2時間が半日になり、仕事の幅も広がった。その頃、市の清掃業務で働く障害者を募集していたので応募し採用された。転勤ししばらくぶりに戻ると彼は退所していた。就労が定着し他の数人とグループホームに転居していた。

 施設敷地内の戸建ての建物に彼らが宿泊する時があった。ビールを数本持って仕事帰りに訪ねると歓待してくれた。夕食を済ませた直後だが、飲みながら仕事の話、職場内の人間関係、嫌だったことなど、話す様子は居酒屋で見る風景と変わらなかったそこで"どうだい...、施設に戻ってまた仲良くやろうよ!"。冗談のつもりだったが真顔で"ヤダ!やだ!絶対やだ!"。大合唱された。理由を訪ねると"わかんねぇ...、でも絶対やだ!"。大人の世界には、男の世界には、言うに言われぬ事情がある。"そこんとこ承知の上、お付き合い願いたい!"と彼らが言っていると思った。(2022.1)

「初夢」

 昨年は「インクルージョンプラン(仮称)」の策定に忙しかった。準備は1年だが、以前からこれに繋がる作業を進めてきた。最初に着手したのは「研修体系の見直し」。役割に応じた業務推進の「等級別研修」と、支援や相談、制度の理解など障害福祉サービスにかかる「専門研修」を体系化し、誰もがふさわしい研修を受けられるようにした。単に知識の獲得ではなく、日常的に使える"道具"となることが課題。だから講義だけでなく、業務中に学びを深めるよう意識した。キーワードは"OJTOFFJT"

その中で課題となったのが"施設内虐待"。頻発したからではなく虐待を防ぐ手法を考え、どう支援に活かすかだ。そこで"マルトリートメント(不適切な支援)"≒虐待のグレーゾーンの研修を重ねた。そこから「点検シート」を見直し、マンネリからの脱出、身近に感じられるものにした。結果が出る頃に法改正となり今年4月に「虐待防止委員会」の設置・運営が義務化された。藤沢育成会はこれまでの取組みを土台に具体化する。

一方で、監事監査の指導を受け"リスクマネジメント"を検討した。事業特性による違いを視野に入れ法人全体で統一性のある"ヒヤリハット報告"を徹底し、データを積み重ねた。当初、項目の分類が不十分だったが次第に統一化できた。ここまで数年かかったが、結果的に多くの職員の意識下にヒヤリハットの意味が根付いたことが最大の成果。3月末には法人統一のリスクマネジメントのルールが出来上がる。

これらから「職員行動指針」の見直しが提案された。策定から時間が過ぎているから再検討の必要性は誰もが認識しており当然のように検討し始めた。重視すべきは"日常使い"が出来る行動指針。"日常使い"とは、誰もが認識し、理解し、口にし、具現化出来ること。支援は利用者との相関関係だが、これまでの指針は職員だけ考える傾向が強く、利用者の視点があるようでなかった。そこで"誰もが判る、職員自身の言葉で作る"を重視した。だから多くの職員が参画する場を設け検討した。これも2年かかったが3月には完成する。

これらは、あと3か月ある今年度目標の「日常を見直そう!」の中で取り組んだ。私たちは"日常"を仕事としている。それは間違いなく利用者の日常。そして、ご家族の日常にも大きく関係する。だから今の"日常"を当たり前にせず、それを見直し支援、予算や収支、そして制度へのチャレンジも日常と考えている。日常を科学することが障害福祉サービスの質的向上を図る手立てだ。それは、虐待防止ではなくより良い支援に取り組むことが結果的に虐待防止、リスクをなくすのではなくリスクを理解し予見して減少させることがリスクマネジメント、故に"リスクと共存する日常"を求めていた。

ひとつのことが、いくつもの課題、未来につながる目標に連動する。その課題だけで問題解決としたら躍動しない。些細な積み重ねが"日常"なら、些細なことが苦しいのも"日常"。だから見落として当然ではなく、連動して憂い、想いを巡らせて考えるとわずかなことも良く見える。それを理論と結びつけ、新たな障害福祉サービスを生み出したい。社会福祉は、理論と実践を分断し続けてきたと考え、"理論値"を学び、それを"臨床値"に置き換えられる障害福祉サービスとなった初夢が正夢になることを夢見た。(2022.1.1)