日記

理事長日記

「措置から契約へ」と言う意味

 20年ほど前「障害者自立支援法」が論議を誘った。次第に熱を帯びその後、数年で「障害者総合支援法」となった。論議の中心課題のひとつに「措置から契約へ」があった。措置は行政処分。契約は個人の意思が働くが、行政処分に意思は反映しない。そこで、当事者の意思を尊重するとし導入された。そこから"自己決定支援"が重視された。背景にはUCLAバークレー校でエド・ロバーツが始めた当事者の自活運動≒自立運動があり、どんなにサポートを受けても"自己決定、自己責任"だとの考え方の流れをくむ。県内では鈴木治郎理事長率いる「KILC」がある。それが現在の"意思決定支援"につながる。

 つまり「措置から契約へ」は、自らの"意思"に基づいたサービス保障。しかし、物事は表裏一体。縦から、横から、斜めから見れば、同じ景色が違う世界に見える。だが、最近は答えをひとつにしたがる。制度を創る行政から見ればそうなる。だが、答えをひとつに出来るか...。障害当事者の目線と行政の目線、そしてサービス提供者は同じ目線か...。制度を策定した行政側は、当事者にあまねくサービスがいきわたることが目的。障害者はより快適な生活のためにサービスを活用できる環境を求める。そこでサービス事業者の視点を考えなおすと、当事者と同じ目線で考えているようで変化が見えない。

 サービス事業者は「措置から契約へ」で何が出来たか?どう努力したか?何を変えたか?結局、何も変わっていない。放課後等デイサービスで夜遅くまで展開すれば残業前提で働く親に選ばれる。しかし、子どもの福祉は...?いや、現代は"子ども家庭福祉"。それは"子ども"と"家庭"の状況におりあわなければならない。では、放課後等デイサービスはどう"おりあう"か?それゆえ社会の変化の中で"選ばれるサービス"がある。サービス事業者は子どもと家庭の福祉を考え合わせた展開が求められる。選ばれることと子どもの福祉のせめぎあいに苦慮し、おりあいをつけたサービス展開をする。選ばれるだけなら家族の求めに応じればよいが、それではミッションを忘れた社会福祉と言えないか...。このジレンマがすべてのサービス展開にある...。だから「措置から契約へ」の真意はサービス提供者に重い課題を突き付けている。それは理念的な"価値"と、選ばれる"価値"のせめぎあい。両者がアンビバレント(両価性)なのだ。

 当事者はまだ本当の「措置から契約へ」を享受していない。なぜなら措置時代と変わらないサービスを選ばざるを得ないから。たとえば、10時頃から始まるサービスは当り前か?10時前後からとは、保護者は正規職員で就労できないことを意味する。利用者も多様である。それに応じるサービスはなぜ生まれないのか...。また、夕方からの趣味のサークルはなぜ出来ないか...。選択できるが、選択するものがない現実では「措置から契約へ」は絵空事。時代の波にもまれ自動車産業はトレンドを創る。車種、デザイン、色、素材、燃料を繰り返し再考し選ばれるサービスを提供する。それと何も変わらない「措置から契約へ」の"契約"。だが社会福祉の本質を見誤ったものは受け付けられない。なぜなら社会福祉には"公共的役割"がある。当事者は今もず~っと選べるサービスを待っているが、サービス提供者は措置から脱出できたか...。物事を多様に見る重要性を改めて想う

卒業論文と言う登竜門

大学教員時代、卒論指導は大変だが一番面白かった。大卒の"証"は卒業証書で資格取得以外は楽しく過ごすのが今どきの学生。そこで「自分で大学を卒業した"証"を創ろう!」とゼミ希望学生に投げかけた。それでたじろぐ学生は希望しないだろう・・・と。ゼミは10人以内だが複数教員に面談する規則があり倍以上の学生が来た。それ故、卒論必須とした。

 卒論発表会を見ると多くのゼミには統一感があったが、個性豊かなテーマが並ぶゼミだった。それぞれ興味ある課題を探す。3年終了前にテーマを決め春休みに構想を練り4年の初日に発表。このテーマで書けるかと心配なものもあったが、出来るだけ自由にした。行き詰る学生もいたが、GW明けに取組み始め、書きだすのが梅雨の頃。毎日、相談に来る人も全く音沙汰なしの人もいたが、皆どう書いて良いか判らないのが常。正直、"コピペ"も"丸写し"もあったが、出典だけは明示させた。書くことになじむと調べる姿が板についた。何を学んだ時よりも自分の中から出てくるものを書く作業は、学生をぐぅ~ん!と成長させた。卒論提出最終日は、教室にパソコンを数台用意した。自前の学生が多いが、用意したものを交互に利用していた。助け合い締め切りギリギリまで取組み、終了と同時に凄い解放感に浸りしばらく動けなくなるほどの充実感。そして成し遂げた自信がみなぎっていた。学生たちの努力に報いるために、簡易製本機で卒論を製本して手渡した。この中で何事にも真摯に取組むことや最後までやり抜く姿勢を持つ大切さを味わっていた

 だが、苦労は尋常ではない。"てにおは"から直された人がどんどん力をつけて、終了時は他学生と変わらなかった。いつまでも書き始めない学生が、難しすぎたと諦め顔で面談に来た翌日"分かった!これです!"と嬉しそうに1冊の本を持参した時の顔は輝いていた。参考図書が少ない学生はインタビュー調査で補った。それは「なぜ左利きは矯正されるか」。また「アンパンマンとバイキンマンの人間関係」から、家族的なアンパンマンと、会社組織的なバイキンマンの環境の違いで幼児の生活環境を論じた。自分史と幼児教育のあり方を書く学生は毎年いた。往々にして教科書との対比で親の育て方を批評した。それゆえ母との確執も見たが、ありがたいことに大人になった我が子の考えを受け入れてくれた。そして「胎児虐待」の学生は、新たな考え方を丁寧に調べ、卒業と同時に念願の乳児院に就職。稚拙な文章は否めない。不十分な調査も仕方がない。ルール違反でなければ探した文章を使うこともあったが、しっかりと"学び"をつかみ取っていた。

 ゼミのテーマは"支援とは..."。対人援助職として一貫して"支援"について考える時間。内容は問わずに毎回、誰かが"支援"について考える素材を発表した。"韓流スターのおっかけ体験"や"ディズニーランドのアルバイト"もあった。つまり人のいるところ必ず"支援"があると示していた。支援する側と支援される側の上下関係を想定しがちだが、支援は本来平衡の関係"教育は1本の丸太棒と2人の人間から始まる"が好きだ。どちらかが上ではなく上がったり下がったりするシーソーの関係。教師然とするのではなく、相互性がある支援が卒論指導だった。真摯な姿勢は相手の真摯な心を刺激し、真摯な心と心がさまざまな模様を織りなすと学んだ

「制度の番人」にならないために

 いつも"社会福祉とは何?"...と、疑問、不安、焦りを感じる。役所の窓口で「それは出来ません!」と断られている人を見る。「それは出来ません!」は"制度にありません!"とか、"制度に合いません!"などの意味だろう。つまり"制度に合わせて相談に来なさい。"と言われているようなもの。社会福祉は制度がなければ出来ない。収益を得てそれを財源に行うのではなく、税金等に頼らざるを得ないから、公平・公正を保てなければ瓦解する。だから例外を作るのはすごく難しい。制度は人間が作っているが、人はそれぞれだから個人的課題はもともと制度になじまない。だが制度を重視しなければ成立しない。だから、制度を作る人も、制度を運用する人も、制度を変えたいと思う人も、ジレンマがある。

 公務員時代、支援の職場と制度を作り守る職場を行き来した。支援の場ではプライバシーに踏み込まなければ問題の本質が見えない。本質を見誤ると制度が機能するどころか自立を損ねかねない。ケースワークの母・リッチモンドは「ひもじい思いをしている子に食べさせるようにと酒乱の父親にお金を渡して問題が解決するか?」と問う。それでは酒量が増え問題を拡大する恐れさえある。ゆえに"支援"は課題を多角的に読み取らなければいけない。だから情報を積み上げ詳細に分析する仕事が求められる。しかし、諸制度を見直す時は、個々のプライバシー問題まで積み上げると課題が多様に見え過ぎて核心にたどりつきにくい。核心を探るためには、情報を削ぎ落として共通項から見る。結局、制度は個人の事情に応じきれない。しかも、制度は社会情勢や時代の変化が重なり更に複雑になる。それなのに新制度に出会う時、自分基準で最良を願う。期待感も含め自分との乖離が際立つ。その結果、不満が充満する。こうなると制度が永遠などと到底思えない。

制度は人が作るので、人が変われば考え方も変化する。また、税収の増減など社会動態で変化する。すべての人が平等で差別なく生きる権利があると言い始めたのは第二次世界大戦後。時代の変遷で見るのと同様に、世界の動向で見るとすべての国や地域の中で障害者の平等性を認識する国や地域がどれだけあるか...。今の制度は10年もつだろうか...?と思う。障害の概念はどうだろう?IPS細胞で脊髄損傷の人が治療可能になったら変わらざるを得ない?角膜移植手術で"見える人"になれば障害者ではない?でも、身体障害者手帳は更新を必要としていない。平成に障害の仲間入りした肝機能障害や障害者自立支援法施行から一部難病治療者がサービス対象者になった。さらに、生活保護基準など制度改正は毎年行われている。それがサービス利用者の暮らしに影響を与える。もちろん社会的養護の子どもや保育に欠ける子どもなども。だから制度に従順であるべきだと思い疑いもない人たちを見ると不思議でたまらない。社会福祉制度草創期に民間事業者を社会福祉法人として認定した。それまでの事業を確保するためには必要不可欠だったからだろうが、表向きは"民間事業で活性化を図りアイディアを生かす"だった。民間社会福祉事業者としてプライドを持って、次代に見合う先駆的事業展開をしたい。だから、制度を守る姿勢と、制度を改める志向性を失わない事業展開を希求する。ゆえに、制度の番人で終わるのではなく、制度をさまざまな角度から検証したい。

実習生は"見た!"

現場主義とか臨床値と言いながら現場を離れ、大学で社会福祉領域を教えた10年ほどは全く違う景色を眺めた。世間では大学教員のイメージは豊富な知識や見識の高さを感じるが、権力闘争や"オタク?"って思うほど世間に疎い人もいて一般社会と変わらなかった。さらに領域が細分化され接点が少ないから個人事業主の印象だった(私が特別だったのかも...)。そんな中で一番の癒しは学生達との付き合い。もちろん腹立たしい学生もいるが、何かを求める学生が"わかった!"とす~っと吸収する姿は感謝の気持ちすら覚えた。学生が真剣に話すのが"実習体験"。情報通りもあるが、あの施設で?あの法人でなぜ!とも思った。学生から真顔で見解をただされた時もあった。

 まずは帰郷して実習した報告。「先生!聞いて!」。学生は怒り心頭。毎朝、登校前の清掃後"理事長先生に感謝します!"と全員で唱和するそうだ。「あんなことをやらせて良いんですか!?」と。理事長は地元の名士で、行政監査等でも指導出来にくいらしい!と訴えてきた。学生は両親の仕事柄、行政監査の実状を聞かされていたようだ。しかも、地元で一番大きな社会福祉法人だと・・・。個人的経験ではこのようなことはないが、他県に実習した学生の施設訪問で感じたことがあったのでありそうだと思った。施設運営最低基準は法人の独自性を否定するものではないが、行き過ぎた思想信条の強要は指導対象では・・・?

 療育に疑問を投げられ言葉に窮したこともあった。知的障害児・者施設でどうして自立した利用者も指示を仰いで洗面をしなきゃいけないの?トイレに行く時間を決めるのはなぜ?食べたくないのに無理やりに口に入れた職員がいたがどうして?学生は自分基準で見て当り前ではないことをどう理解すべきか困惑していた。また、学んだこととの違いに疑問を持ち整理がつかずに問う。中には就職先と考えていたがショックで方向転換するものもいた。学生は実に正しい。実習中に職員から聞き疑問を持たずに話すこともあった。そうなると間違いだと説明しづらい。たとえば記録は時間の無駄だから監査に出せる程度で良いので利用者様との時間を大切にしなさいと言われた学生は、記録の意味を全く理解できておらず実習日誌が...とても残念!

 一番困ったのは"先生、職員が「そこの(便器の)水でも飲んどけ!」"と言った話。さすがに見逃せず「絶対にダメ!」と全学生に伝え、実習先から外した。実習指導で施設訪問をするが、社会福祉領域の教員は少ないので職員は簡単にはぐらかせる。さらに、本気で正しいと考えている場合は本当に対応が難しい。また、行政権限はないので伝えることさえはばかる。もし、実習を受け入れてもらえなくなったら...とも考えてしまう。

 知人の園長から呼び出しを受けた。何か粗相をしたのだろうと覚悟して伺うと、学生が施設内虐待を施設長に訴えた由。加害対象はベテラン職員。精査した結果、軽微な虐待と認定、対象職員を厳重注意。だが、実習途中で学生も居づらくなり困り果てての相談だった。施設長や職員と協議の結果、実習継続。無事終了後、学生と話し合った。まだ若く正義感の強い学生の行動は大学側にも問題を投げた。学生は実習で多くを学ぶが、送り出す側も、受け入れる側も大いに学ぶべきものがある。

「従順」と「抗う」

 今月、6回目の年男の誕生日を迎える。長く"フクシ"に従事した。23歳で福祉職として県庁に入庁以来50年、児童指導員、相談員、児童福祉司、行政と転勤した。ヒラから管理職となり、大学教員、理事長と役割が変わったが"フクシ"から離れたことはない。良い仕事に就いたと"フクシ"に感謝している。どんな仕事でも熟練するに従い奥行きの深さや、幅広な視野を持たなければ出来ないだろうが、"暮し向き"が基点だから自らが成長しないと難しくなる。だから、与えられた役割を担うために必死に追いつこうとした結果が今に至っている。

 若い頃は従順だった。明治生まれの両親からルール重視を叩き込まれたからだろう...上席者に従順だった。だが、どう発言したら応じていただけるかは常に腐心した。なすべきことは常に自分の"ものさし"で判断した。仕事でも己の価値観で考えるのが基準。だから従順だが自分色を求めることを重視し個性を見出だそうとした。"福祉職"として行政で働く人は、個性が抑えきれないような仕事ぶりだった。もちろん時代背景もあろうが自分がやりたい仕事を追い求め残業手当など無視していた。家族への広報誌は自前で作る。当然業務終了後で残業を気にしたら出来ない。不登校の子どもとの約束を確認するため朝7時過ぎに家庭訪問。登校の可否は8時前後のため外で見守る。残業を気にしたら出来ない。その頃"公務員は、休まず、遅れず、働かず"などと揶揄されていたが、全く逆だった。

 もちろん、上司に逆らえばパージされることもあり、いわゆる冷や飯喰いもいた。だが、最近はこのような人を見かけない。従順とは付き従うだけのようで、したたかさが感じられない。なぜこうなったか考えると、後輩たちから福祉職を選んだ理由を "公務員になりやすかったから"と聞いた頃から増えた気がする。また"究極の五択戦術です!"と。つまり、統計上、正解率が高いと言われた番号を選び合格したという。そこに"社会福祉"への想いは感じられない。何をしたいかが判らない状態で自分色が出るはずもなし...。

 学生時代は70年安保時代。社会福祉学は孝橋正一が人気。難解だったが『社会事業の基本問題』や岡村重雄の『地域福祉論』も読んだ。必須科目には「社会問題」。"フクシ"は社会変革の道具と考える向きもあり、ドヤ街【現在は放送禁止用語ですが、当時のまま使わせていただきます】のボランティア活動で学生運動のセクト争いに迷いこみそうになった。少なくとも制度重視で学ぶ機会は極めて少なく、社会福祉制度はいまだ道半ばと主張していた。このような学びを重ねた先輩たちは、社会問題に敏感で"政治の時代"ということもあるが社会運動(ソーシャルアクション)が活発だった。

しばらくすると心理学者が"良い子が危ない!"と発した。子どもが忖度する時代に...。人を気にするため、誰はばかることなく考えを発する人が減り"丸く納める"。我が事も丸く納めるのだから、他人事では痛みが判らず"まん丸に納める!"。損しないための"忖度"は当然で、なぜいけないかが判らない...。ただ従順なのが良いのではなく、すべてを抗うのが良い訳でもない。どう"おりあう"かだ。社会問題を見据える社会福祉は社会とのおりあいが重要。6回も年男になればそろそろ枯れてもよさそうだが、まだまだ抗いたい己がいる。

最近、救急車少なくなったね...

特別養護老人ホーム建設担当の時、何度も「説明会」を開催した。どこにもある話だが"総論賛成、各論反対!"に悩まされながら丁寧な説明に心がけた。それでも、反対とは言わないが"仕方がない..."の空気が残った。ここまでで転勤したので、その後の様子は知らないが数年後スタートした。

 しばらくしてその特養に転勤した。児童、障害と施設、行政、相談機関に転勤した後だったので特養でも未知の世界とは思わずに赴任したが別世界だった。基本的に次へのアプローチが希薄。知的障害福祉も社会的養護も原則として"自立"を促す。つまり、次へのアプローチがあった。しかし、失礼ながら施設内にゆったり、まったりした空気が漂い、職員も伝染したように同様の空気が...。この解消はとても難しい...。

 施設は基本的にチームで仕事をする。だから、個人の資質が弱いとチームはどんどん安きに流れる。何故なら"暮らし向き"の支援は最低限度を明確に示せないから。例えば、自分の"暮らし"は、日々"まあ、いいっか!"で我慢するが、他人の"暮らし"は痛みを伴わないので無感情で安きに流れる。そして、一度限度を超えると最低ラインは下がり続ける。だから"ミッション"が大事で、"モチベーション"を持ち続ける仕掛けが重要。

 しかし多くの場合、日常業務に追われモチベーションのための仕掛けなど眼中にない。そうなると利用者には許しがたい行為の連続で、何とかしようとする職員はいたたまれなくなる。次第に利用者の健康管理もおろそかになるが、事件ではないので気づかないふりをする。そこで心ある職員と共に少しずつ取り組み始めた。やり過ごしていた日常から全体で"よし!やるぞ!"と意識するには時間が必要。当時は"身体拘束廃止"が社会的課題だったので、これをミッションに掲げ、職員の工夫を具現化。最初は「ヒヤリハットを見逃さない!」から始め、統計で傾向を示した。それが足掛かりとなると職員が作ったデータで改善出来た実感がさらなる展開を生んだ。その間も地域との交流はあり、町内会の行事に必ず出席したが、声もかけられず地域交流が図られた印象は薄かった。

 職員の努力で身体拘束が全面解消された頃、施設のお祭りがあった。庭一帯に屋台を出し、バザーもあったので地域の人や家族の参加でにぎわった。地域の人たちがテーブルを囲んだ場に近づくと"ちょっと、ちょっと!"。不都合があったかと心配して近寄ると"最近、救急車が来なくなったね!なんか、変わったのか?"。意味が分からず当惑したが、頻繁に来ていた救急車が極端に減った話だった。"事前に体調の変化が判るように注意しているだけです..."と。地域の人たちは、"いや~ぁ、よく頑張っているよな!"と、声をそろえた"あ~ぁ、よく見てくれているな..."と。"ありがとうございます。これからもよろしくお願いします"。と挨拶してテーブルを移動したが、心がほんのり温かくなった。身体拘束廃止など地域の人には伝えていないし、見学する人もいないのに見えていた。これが近所付き合いだと思った。その後、緊急時の夜間避難等でご協力いただける話や、地域の人も含めた食料備蓄を施設側がするなどの話を聞き、また心がほんのり温かくなった。地域との交流とはこのようなこと...と、名前も知らない人に教えていただいた。