日記

施設長・課長日記

「予防の視点」(相談支援プラザ 所長 伏見康一)

相談支援プラザ

通勤の途中、消防署と警察署の前を通る。掲示版の「昨日の管内火災件数」「昨日の管内事故・死亡者数」につい目が行ってしまう。藤沢北警察管内の交通事故死亡者数ゼロ日数は連続80日となるそうだ。「0(ゼロ)を0(ゼロ)のままにする」ことに日夜取り組まれている方々のおかげで平穏な生活が送れていることに頭の下がる思いだ。

この「0を0のままにする」考えが、障がい福祉サービスでは思いのほか浸透しにくい印象がある。介護保険等の高齢者介護サービスでは「介護予防」の視点があり、要介護状態になる前から「予め防いでおく」考えがあり、相応の事業なども充実している。地域包括支援センターはその中心的役割として位置付けられている。

では、障がい福祉サービスでは「何を」「何のために」予め防ぐのか。ICFで位置付けられる環境因子・個人因子の「背景因子」と心身機能・身体構造・活動・参加の「生活機能」の関係性のエラーが「障がい」だとすれば、それはすなわち「二次障がい」がその対象となる。つまり二次障がいの予測・想定こそ重要となる。

予防の予測・想定はいわば「ネガティブ発想法」。これが、昨今の流行的アセスメント手法「ストレングス視点」と背反してしまう。本人の強み・いいところを伸ばす、という考え方がいつの間にかネガティブな見方はしない、悪いところは見付けない、との誤認になってしまってはいないか。ストレングスを含めた膨大な情報を得るには制約などない方が収集も分析もし易いはずと思案する。

私たちが取り組むべき予防的支援や緊急対応は予測と想定が不可欠であるが、最も大事なのはその専門的担当部署と者の配置だと思う。予防的支援も緊急対応も既存資源の努力と根性だけに委ねていてはいけない。法人の支援テーマ「当たり前の日常を見直す」ために「0を0のままにする」という予防の考えも取り入れていきたいと思っている。

第52回「ありがとう日記」 (湘南あおぞら 施設長 倉重 達也)

 

先日、40年前に一緒に仕事をしたことがあるご婦人と久しぶりに会う機会がありました。ひと通り近況報告が済んだ後に、その方が「私は、今、ありがとう日記を書いているの」という話をしだしました。

 今までは、その日にあった出来事だけを書いていたとのことですが、それだけでは読み返しても詰まらないので、ある日から、その日に感じた「ありがとう」を日記に書くようにしたとのことです。

 そうすると次々と良いことばかりが起こるようになったとのこと。

 そこで、私も「ありがとう日記」を付けてみることにしました。

 某月某日 出勤時にエレベーターで上の階の子と一緒になった。やんちゃな子だったのにすっかり礼儀正しい中学生になっていた。子供の成長は著しい。今日は一日清々しい気持ちで過ごすことができた。ありがとう!

 某月某日 体調を崩し、何年かぶりに3日間も仕事を休んだ。その間、これと言った緊急の連絡もなくゆっくり休むことができた。職員にありがとう!

 某月某日 散歩していたら、ビルの植え込みに紫陽花の花が綺麗に咲いているのが目に留まった。雨に打たれたらもっと美しく映えたかも知れない。ジメジメした嫌な季節に花を添える紫陽花にありがとう!

 某月某日 「今日もまた胸に痛みあり 死ぬならば ふるさとに行きて死なむと思ふ」

啄木の歌に今のコロナ禍を思い合せ、何時の世も変わりなしと今の身を慰める。昔日の人にありがとう!

「通勤途中の顔見知り」(湘南ゆうき村・アポロ 課長 高橋羽苗)

もうずいぶん前ですが、ラーメン屋さんの店員さんを見て、知り合いだと思い「あ」と声をかけました。でも誰だったかな...相手は怪訝な顔。なんとなくあやふやにしてラーメンを食べて店を出たのですが、いつもと雰囲気も違ったなぁなどと考えていると、相手は毎日同じ電車に乗る女子高生で、相手の反応ももっともだなと後から苦笑いをしたことがあります。

毎日の通勤で、いつも同じ場所で会う人や、すれ違う人がいて、なんとなく顔見知りになってきます。いつもと違う場所で会うと今日はちょっと遅い...?と目安にしたり、相手が遅いと勝手に心配したりと、その人たちの生活や背景を想像しながら通勤しています。相手が、いつもと違う格好だったり、いつもと違う人といたりすると、妄想は広がるばかり...

そんな中でいつもだいたい同じ場所で私を抜き去る高校生がいます。端に寄るとなんとなく会釈をしてくれていたのですが、最近は小声で「ありがとうございまーす」と追い抜いていきます。

顔見知りとのちょっとした重なりを嬉しく感じました。

 

さて、最近通勤ルートを変えてみました。

「最近あの人いないな~」と思っている人がいるのか...?ちょっと気になるところです。

写真は、湘南ゆうき村の屋上から通勤ルート越しに見える富士山。

「父からのエール」 (サービスセンターぱる 課長 鈴木保志)

この4月から中学生になった長女から「剣道部に入った。」との報告があった。普段、暇があればイラストやアニメのキャラクター等を描いており、文科系の部活に入部するのかと思っていた。剣道?・・「鬼滅の刃」の影響か?と話を聞いてみたところ、幕末の武士「新選組」の影響を受けたようだ。

 小さいころから歴史に興味を示し、図書館で借りた本を読んでいるのは知っていた。クラスに何人かは歴史を好む、とりわけ「新選組」や「三国志」等に詳しい同級生はいたものだ。自分が学生時代に一貫して興味が持てなかった教科は日本史や世界史であり、過去を知る意味や楽しさを全く理解しようともしなかった。ましてや考古学などは意味不明としか言いようのない領域・・。当然、過去があり現在、未来があるので意味がないわけがないが、当時は興味など皆無であった。偉業を成した人物が存在していなかったら、今の世の中がどうなっていたかという視点を長女に投げかけられ「そうね・・」と少し恥ずかしいおもいで共感する父親。

何にせよ新選組の思想に感銘を受けたようだが、最終的には「刀がかっこいい!」でまとめていた。確かに格好いいが、練習は格好いいとはかけ離れ地味な体力づくりに終始しているようだ。

それにしても子どもの成長は著しく、目をそらすと変化に気づくこともできない。立てかけた竹刀からは誇らしい成長と、青春そのものが放たれている。

「がんばれ!」

『こども達から学ぶ』 (みらい社 課長 大澤 健二)

職場に着くまでには、4つの小学校の通学路を通ります。コロナ禍のためか、登校班で行動するのではなく、それぞれが友達や一人で登校している様子を見ながら通勤しています。

今回、何かを感じてもらいたいと思い二つの出来事を紹介します。

エピソード①

小学2年生くらいの女の子が、歩道橋を下り終わった付近で転んでしまいました。

信号が赤で停まっていた私は、その場面をハラハラしながら見ていました。むしろ、見ている事しかできなかったのだと思います。

少し前を歩いていた56年生くらいの生徒3名が女の子の傍に戻り、なにやら声をかけながら女の子が立ち上がるのを待っていました。

女の子が立ち上がると、1人の子はしゃがみ、膝に付いたのであろう石を払ってあげ、もう2人の子は、怪我をしてないか体の様子を確認していました。

転んだ女の子は泣いていたのですが、上級生の生徒と一緒に歩いているうちに涙も止まったようです。

私は、「下級生に寄り添った生徒さんが分かれば、良いことをしたと伝えて欲しい」と、その様子を学校へ伝えさせていただきました。

エピソード②

春。

小学1年生が自分の体と同じ程のランドセルを背負い登校している様子は、私には嬉しい季節です。

ある日、靴紐を結いなおしているのか、それとも違うのか。男の子が背を曲げていたところ、ランドセルから教科書やら筆箱やらが歩道へ。

すぐ後ろを歩いていた上級生が、落ちた教科書や筆箱を拾いランドセルへ戻していました。もちろん、ランドセルのロックもしてくれたのでしょう。

その後、男の子は友達のもとへ走っていきました。

(皆がそうでないかもしれませんが)こども達は、仲間や自分より弱い存在、困っているであろう人を助けたり、気にかけたりすることが自然とできてしまう。 とても大切なことだと私は思います。

つい先日、酔って自転車と一緒に歩道へ寝転がる成人男性に出会った時、近くを歩いていた人(数名の大人)は立ち止まる事はありませんでした。

なぜだろう?

「大人は子どもの見本(手本)となるべき」と聞く事が多いが、見本にも手本にもなっていない事が多いと私は感じています。コロナ禍での過ごし方でも、よく「もう、我慢の限界」などと、タガの外れた様子で大人がテレビのインタビューに答えているが、こども達は、多くのイベント(運動会、今まで通りの卒業式、遠足、修学旅行など)や楽しみを諦めたり我慢しています。大人の言うことも良く聞いていると思います。時に間違った判断であっても、大人であれば、それを違うと従わない行動もできます。しかし、こども達はそれに従い行動することが在ります。

だからこそ、私も襟を正し行動せねばと地域のこども達を見て思いました。

「気配り・心配り・感謝」(湘南あおぞら 課長 石川大助)

湘南あおぞら

「日本文化のすばらしいところ10選」という言葉をクリックした。

・礼儀正しい

・きちんと列を作って並ぶ

・電車の地下鉄が時間どおりにくる

・おもてなしの文化が隅々まで行き届いている

・チップの習慣がない

・治安が抜群に良い

・自動販売機がいたるところにある

・ウオシュレット付きの清潔なトイレ

・学校は生徒たち自身で掃除する

・落とし物・忘れものをしても後日みつかることがある

現代日本で生活している中ではごく当たり前に感じる事ばかりだ。

また、別な言葉をみつけクリックした。

「海外で不思議がられる、日本人ぽい仕草や考え方8選」

・いろんな場面で軽く会釈

・何かと小さく拍手

・横断歩道で車が譲ってくれたら小走り

・食べる前に小声で「いただきます」

・電車やバスでのスマホはメッセージのみ

・駅で乗車順の列を探す

・小雨でも傘をさす

・すぐにノーと言いづらい

思わず『へえ~』となるほど自然にしている行動だ。

育った環境が違えば考え方も違うし行動も違う。ごく当たり前のことだ。

場所や相手によって見え方や感じ方も異なる。自分にとっては当たり前な事も、相手にとっては当たり前ではない事もある。

コロナ渦の今だからこそ大事にしたいのは、相手、周りへの「気配りや心配り、感謝」だ。言うは易く行うは難し、まだまだ途中な事ばかりだ、、、。

気配りとは全く話が違うが、この季節に楽しみにしている事がある。

田植え直前の水のはった田んぼに夜の空模様が映り込む景色だ。風も穏やかで月が映り込むと最高だが、空が映るだけでもとなんとも言えない幻想的な風景になる。余計なのは蛙の大合唱も漏れなくついてくる事だ。