日記

施設長・課長日記

新たな共通項探し(湘南ゆうき村・アポロ・湘南だいち 施設長/三嶌 悟)

アポロ
湘南だいち
湘南ゆうき村

2020年も残すところあとわずかとなりました。まさに激動の1年でした。誰もがこの劇的な変化を予想したでしょうか。

 私の仕事の中でも、今年は大きな変化がありました。法人人事に伴い、これまでの「湘南ゆうき村・アポロ」に加え、10月より「湘南だいち」も担当させていただくことになりました。

 私にとっては約1年半ぶりの湘南だいちです。今は「記憶・変化・新たな形」に適応してきているところです。

経営の大事な視点である「ヒト・モノ・カネ」は、今までの倍以上です。この大きな変化の中で、着任直後から「共通項探し」を始めました。どういうことかというと、「物事を俯瞰的に見ながら、それぞれの良さや課題はどこなのか、事業として共通できるところはどこなのか」を模索しています。

着任して約3ヶ月、答えはまだまだですが、現状では「存在意義の大切さ」を実感しています。皆さんを支えることの大事さと、皆さんに支えられているからこその今の働き方があるからです。

不安が先行する今日において、何事にも「信じる気持ち」を強く持ちながら2021年に進みます。

image.png 

ゲン担ぎで新調したスーツです。今回は「ブラウンスーツ」で、身も心も温かく仕事に励みます。

良い意味で"遠慮しない"(サービスセンターぱる 所長/法人本部 事務局長 石川 歩)

サービスセンターぱる
法人事務局

12月も中旬となり、朝晩、そして日中も寒さが厳しくなってきました。

湿度の下がる季節でもあり、感染対策のマスクをするのが辛い方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

さて、124日のスタッフ日記にもあるとおり、(株)三幸運送様に法人から感謝状を贈らせていただきました。詳細はスタッフ日記をご覧いただけたらと思いますが、グループホームの利用者さんの、その方に合わせた就労の場を提供していただいております。

http://www.f-ikusei.or.jp/staff/2020/12/post-102.html

日常の支援の中では、障がい特性や肯定的な言葉がけなど考え過ぎてしまい、当たり前のことを当たり前に伝えることが出来ていないことがあります。

そんな中で、会社の方から"福祉"とは異なる立場で、「世の中を甘く見ないほうがいい」といった厳しくも思いやりのある言葉を掛けていただけたことが、ご本人の社会経験に繋がったのではと感じています。

街の中でルールを守らない人がいても、それを注意する人が少なくなったと言われて久しいですが、良い意味で"遠慮しない"ことも大切だと、改めて感じたエピソードでした。

生きることの輝き(よし介工芸館・アートスペースわかくさ 施設長 妹尾 貢)

よし介工芸館

感染症の防止のために、我々の仕事も生活も否応なしに変化を求められ、人が集まることがしにくくなり、活動にも新たな制限が生まれるようになって、改めて「自分の好きなこと」を考えてみた。

バイクにのる、釣りに行く、音楽を聴く、海にいく、虫を捕る、生き物を飼う、泳ぐ、本を読む。休みの日にすることと言ったら、一人遊びのたぐいが多い。

それは「新しい生活様式」になる前から、もっと言えば子どもの頃からそうだので、今回のことで工夫は必要になったが、ストレス発散はできている。

上記の活動の共通点について考えると、どれもみな「生きていることの輝きに触れる」という要素があることに気が付いた。なんだか矛盾している気もするが、そうなのだ。

人間に限らず、広い意味での「他者」の生き生きと活動する様子や、それらが凝縮されて結晶となったものを、いろいろな感覚を通して感じていたい。そういったことを求めて、自分は活動している、ということを改めて認識した。

これは、人類共通の欲求なのだろうか。

人類は図太い生物なので、前人未到の地のどこまでも分け入って、適応してきた。北極圏や南極圏に住む人もいるかと思えば、湖の浮島の上に住居を構えて住む人たちもいる。

古い友人が、インドの北部のラダック地方に住んでいる。日本から移住して観光ガイド・民宿を営むようになって20年が経つ。ヒマラヤ山脈に近いその地域は、標高3000メートルを超え、12月から4月の冬季は毎年、自然の力にロックダウンされるそうだ。一番ちかい都市につながる唯一の道が、雪で閉ざされるからだ。そのような厳しい土地で、人々が生き生きと生活している様子が、友人のホームページから伝わってくる。

人類は、今回も困難を乗り越えて、適応するだろうと思う。どう乗り越えるか、それが問題だ。健康・人命と経済とを天秤にかけるようなことはしたくないが、ウィルスが引き起こす感染症だけでなく、経済が健康・人命にかかわっている部分もあるので、単純な話ではない。経済活動とは、人と人が助け合っていることの一つのあらわれでもある。

ラダック地方では、標高が高すぎて冬は作物がとれないため貨幣経済による物々交換が必要になるが、もっと標高の低い地域では、お金が無くても、自給自足に近い生活で食べる分には困らないという。

 現状に適応した、生活・経済のありかたをいかに生み出すか、我々の活動がそこに、どう関われるのか、そんなことを考えている。

季節の中で 2(湘南セシリア・みらい社 施設長 石塚 和美)

みらい社
湘南セシリア

早いもので12月。今年も残すところひと月となりました。

今年はコロナに始まり、11月には神奈川県知事が再度メッセージを発表しました。

感染拡大を防ぐため、「M(適切なマスク着用)、A(アルコール消毒)、S(アクリル等でしゃへい)、K(距離と換気、加湿)」の基本的な感染防止対策の徹底をお願いしますと記載がありました。

今年は、外出の規制や季節の行事も、中止や縮小などいつもと違う一年となりました。

 その中で、小中学校では運動会や修学旅行のかわりにスポーツ大会や学校でのお泊り会など、みんなで工夫を凝らして考えたイベントを行い、忘れられない思い出を作ったのではないでしょうか。

法人としては、例年、利用者が参加するイベントを企画しておりましたが、今年は集まることができませんので、法人設立記念日にむけた11月16日から11月22日まで「いんくるウイーク」を企画しました。利用者・職員が協力して各事業所の動画撮影や法人のキャラクター「いくちゃん」の塗り絵やゲームなど作成しホームページに掲載したり公用車に掲示し「ラッピングカー」にするなど一体感をもつことができました。

 湘南セシリアもなかなか外出できない中で、秋には焼き芋会やハロウィンなどを企画し利用者に楽しんでいただきました。また、季節の食材を使った松花堂弁当も楽しみのひとつです。掲載した写真は11月の松花堂弁当です。

今は年末にむけて、クリスマスの準備をしているところです。クリスマスメニューも今から楽しみです。

 

一年を振り返り、いろいろな気持ちで年末を迎えましたが、日本にはこんなにもたくさん季節を感じる行事があったのだなあと改めて思いました。そして、人との繫がりを深くふかく考えた一年でした。

 皆さま、健康に気をつけてよいお年をお迎えください。

「心のだいちに思いを寄せて」  (相談支援プラザ 伏見 康一)

相談支援プラザ

遅ればせながら9月いっぱいで湘南だいち施設長の職を降任し、相談支援プラザ専任の配属となりました。湘南だいち就任中においてはご利用者様・ご家族様をはじめ、地域の方々や連携事業所様、委託業者様等関係各位、職員の皆様には大変お世話になりました。

 至らない点もあり、心中苦しい思いもありますが、今与えられている相談部署の任務を達成してこそ皆様への恩返しとなると考え、業務にあたっております。

 湘南だいちは法人の中で一番新しく、施設としての若さがあります。芽生えたこと、これから芽生えてくることなどたくさんの芽が育っていきます。そしてきっとその芽には思いという肥料が必要なのだと思います。

「心のだいち」にたくさんの芽が育まれるようにと、思いを寄せています。これからも共に歩み続けたいと思っています。

「第50回 説明はすれども正当化はせず」(湘南あおぞら 施設長/倉重達也)

湘南あおぞら

フランソワ・ラブレーの研究者として知られている渡辺一夫の著作の中に、「ある教祖の話(a)」として宗教改革者「カルヴァン」を扱った物語があります。

 その中に、カルヴァンの影響を受けたジュネーヴの民衆がカトリック教会を略奪破壊し、過激に教会を糾弾したのにも理由があったというようなことが書いてあります。

例えば、カトリック教会が無知な信者を欺くためにおこなった例として次のようなものをあげています。洗礼前に死んだ幼児が、改めて洗礼を受ける際に一時息を吹き返したというような幻覚を与える目的で死体内へ空気を入れるトリックを使ったとか、ザリガニに小さなローソクを付けて放ち、亡霊が出たような感じにする仕掛けをしただとか、数世紀来使徒ペトロの脳髄としてあがめられていたものが、ただの軽石にすぎなかったというような珍妙な事実が明るみに出たというのです。そしてこのことがカルヴァンやルッターにカトリック教会に対して反逆を企てさせたと言うのです。

 渡辺一夫はその物語の中で、カルヴァンの研究者の言葉を引いて、「こうしたキリスト教の精神的失格(カトリック教会の堕落)は、民衆の反動としての暴力を正当化しはしないが、これを説明するものである」と言っています。

 どんな行為にも理由はあるでしょう。そして最近は「説明責任」と言う言葉がよく使われます。説明をされると納得した気になってしまいますが、いくら説明責任が果たされたとしても、その前にその行為が、「正しい」か「正しくない」かの判断があるということを忘れてはいけないと渡辺一夫は訴えたかったのだと思います。