日記

サービスセンターぱるの施設長・課長日記

 体の管理(サービスセンターぱる/課長 只熊 裕子)

サービスセンターぱる

先日、1年に一度の検診日でした。

まだ飲みなれない白いバリュームは、誰よりも時間をかけて飲んでいるんだろうなと思いながらも、今回も時間をかけて飲みました。

何よりも、検診の時間は、私にとっては異空間みたいな時間を感じます。人々が次から次へと検診項目に並び、いつもせかせか働いている人達が何も考えずに体と向き合う時間、いわゆる物でいうと検品のような、そんな時間のような気がしました。

そんな検診で、初めてマンモグラフィを経験しました。私の血縁でも乳がんを発症した人が身近にいた為、以前よりきちんと受けたいなと思っていたので、よい機会でした。女性は、家事や育児、そして仕事と、なかなか自分のことを優先しようと思っていても、いつも後回しになってしまいがちな人が多いのではないかと思います。現在は男性も家事や育児に参加する方も増えていますが、なかなかそうはいかない方もいるのではないかと思います。私は年をとればとるほど、長生きしないといけないな、と思う時があります。年をとるほど、背負うものが増えていくような気がしています。だからこそ、今回は後回しにせず受けてみました。

そこでとても印象的だったのが、みんなが黙々と検診を受け、する側とされる側も淡々と流れる中、マンモグラフィの担当の女性の方は、とても親身で丁寧に説明をしてくれて、検診を受ける大切さや周囲にもお薦めしてほしいという話をしてくれました。この日の検診の一連の流れの中で、心が動かされ、改めて受ける大切さを感じさせられた瞬間であり、毎年受診しようと思わされました。

当たり前のように仕事をして、当たり前のように生活をしていますが、体は完璧ではない為、自分にとって必要な体の管理を心掛けていきたいと思います。

「正しく恐れる」(サービスセンターぱる 課長 鈴木 保志)

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外出時に「鍵をかけた?」「エアコン切った?」「窓閉めた?」等と確認する習慣が自分にはある。今は何となく念のためのコミュニケーション程度のことであるが、ふと過去の自分の言動を思い出す。

10代後半から上京し一人暮らしを始めたが、アパートの鍵をかけたか、ガスの元栓をしめたか、エアコンは、電気は・・色々なものを執拗に確認していた。この手のエピソードを話すと数限りなく奇怪な話となる為(例えば、ガスの元栓をしめすぎて破壊し、逆に不安になる等)、ここでの詳細は必要ないが、ある時徐々に落ち着いていることに気づいた。

考えられる1つ目の要因は、自分が働くようになり親から経済的自立が出来、何かあっても自分で解決できるだろうという自信につながったこと。   

2つ目に色々なことの仕組みがわかってきたこと。例えば保険に入れば何かあっても保証される、全うにしていれば大丈夫。そもそも鍵をかけ忘れ誰かに入られても盗まれるようなものがあるか?

3つ目に、大らかな性格の人が身近にいることで「それ大丈夫なの?」と感じることを全く気にしない様子に安心を覚え、その経験の積み重ねに自分の姑息な考えが払拭されてきた、この3点が思い当たる。

実態を知り正しく理解する、あるいは自分なりの根拠や解釈で解消できることを見逃し、本質ではなく表層で右往左往してしまうことが自分には多い。

コロナウイルスについても実態がわからない状況から徐々に感染予防の対策が確立されつつあり、生活様式も変わってきた。法人内でも厚労省や市町村保健所の基準を根拠にした上で、様々なケースに対して柔軟な対応が求められている。

コロナに対して「正しく恐れる」という言葉を耳にするが、正しく恐れる為には、情勢を理解し実態を知る必要がある。まだまだ実態も不透明で対応が刻々と変化をし気が抜けない日々が続くが「正しく恐れる」がいつか正しくすれば恐れる必要がない日が来ることを願ってならない。

波多江式インディアン的福祉論!? ⑭(サービスセンターぱる副所長/波多江 努)

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今回も相変わらずの日記で恐縮です。

北アメリカ南東部に居住するアチェロキー族の「危機は人を変えます。 普通の人をより賢くしたり、より責任感の強い者に変えます。」という言葉のご紹介です。

今年の危機は、新型コロナウィルス感染症を挙げる方も多いと思います。

この危機的状況で私たちは何が変わったのでしょうか。賢くなった部分がどこにあるのか、より責任感の強い者に変わることができたのか、を考えてみることにしました。

コロナ禍において、私たちが大きく変わり、賢くなった部分は、衛生管理意識だと思います。様々な衛生管理のうち、手洗い、うがい、換気の重要性を身をもって理解しました。

そして福祉従事者として媒介者となる可能性。私たちの行動によって、感染拡大の可能性がある。という自覚と責任感。その可能性を下げていくことが、リスクマネジメントの観点につながっていくのだと思います。

また、コロナ禍以外にも皆さんにとって(大小あるとは思いますが)危機に直面する場合があると思います。

 その時に「自分を変えることができる。 これまで以上に賢くなれる、より責任感の強い者に変わることができる機会」と前向きな姿勢を持てるように心がけたいものですね。

2020年も残り数日で幕を閉じ、新たな年を迎えます。

この場をお借りし、お世話になった皆さまに感謝申し上げます。

良いお年をお迎えください。

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先日、久しぶりに折り紙をしてみました。「フォースと共にあらんことを」

良い意味で"遠慮しない"(サービスセンターぱる 所長/法人本部 事務局長 石川 歩)

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法人事務局

12月も中旬となり、朝晩、そして日中も寒さが厳しくなってきました。

湿度の下がる季節でもあり、感染対策のマスクをするのが辛い方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

さて、124日のスタッフ日記にもあるとおり、(株)三幸運送様に法人から感謝状を贈らせていただきました。詳細はスタッフ日記をご覧いただけたらと思いますが、グループホームの利用者さんの、その方に合わせた就労の場を提供していただいております。

http://www.f-ikusei.or.jp/staff/2020/12/post-102.html

日常の支援の中では、障がい特性や肯定的な言葉がけなど考え過ぎてしまい、当たり前のことを当たり前に伝えることが出来ていないことがあります。

そんな中で、会社の方から"福祉"とは異なる立場で、「世の中を甘く見ないほうがいい」といった厳しくも思いやりのある言葉を掛けていただけたことが、ご本人の社会経験に繋がったのではと感じています。

街の中でルールを守らない人がいても、それを注意する人が少なくなったと言われて久しいですが、良い意味で"遠慮しない"ことも大切だと、改めて感じたエピソードでした。

 彩〜いろどり〜 (サービスセンターぱる 課長/只熊 裕子)

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来週行われる、インクルウイークの取り組みの中で、事業所紹介をする場面があります。

サービスセンターぱるのヘルパー部署では、主に電車、バスを利用しての外出の支援をしています。

取り組みの際、ある職員が考えてくれた「生活に彩"いろどり"をつける」という言葉がとても印象に残りました。

自分自身の生活の中での彩"いろどり"とはなんなのか、私の生活の中に彩はあるのか、考えさせられた言葉でした。

数か月前、ご近所さんより、しその苗を頂き、花壇に植えています。頂いた時は葉っぱが3枚ほどの小さなものでしたが、次第に大きく育ってきました。

週末になると、食べられるしそが数枚できており、どんな食べ方をしようかと、「しそレシピ」の検索をする週末が続いています。

私は料理が得意ではないため、パスタ等にすることが多いのですが。

今は、食べ方についてはほぼありきたりになってきていても、週末にむけて、しそが出来ていることが些細な楽しみとなっています。

そこで、もっとこの楽しみを増やしたいために、別の苗を探しに行きました。

色んな苗がある中、結局、すぐに食べられるレタスや、娘が楽しめるイチゴの苗を購入しました。

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生活を充実させる為に、自分がやりたいこと、家族が楽しみにしていることを取り入れていくこと。

この出来事も些細なことですが、私にとっては生活に彩を与えてくれる一部だと感じています。

生活に取り入れたいことは、他にも色々とありますが、いつか熱帯魚を飼いたい、と小さな夢を持ち続けています。

生活に彩をつけることは、外出だけでなく、何かを行ったり等、人それぞれ違ってくると思います。私たちも皆様の生活に少しでも多くの彩"いろどり"をつける支援を一緒に過ごしながら、多方面から行っていきたいと思っています。

懐かしい音色(サービスセンターぱる 支援課長 鈴木 保志)

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週末、近隣を歩いていると、とあるマンションからソプラノリコーダーの音色が聴こえてきた。音色が何ともほのぼのとした気分にさせてくれる。小学生だろう、必然的にランドセルが頭に浮かぶ。ふと、自分の子どもが吹いている姿を見たことがあったかな、音楽の授業で習っているはずだが、と思う。

私が小学生の頃は、リコーダーがランドセルの端から突き出ている小学生が登下校しており、中には吹きながら歩いている子もいた。我が子に尋ねると、学校に置いたままにしている、皆そのようにしていると話す。なるほど、私の育った田舎でも、リコーダーをランドセルに突き立てて歩いている小学生はさすがにいないだろうなと思う。

            

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 年に1度は必ず帰省をしているが、いつからだろうか、夏休みなのに外で遊んでいる子どもの姿を見なくなった。自分が子どもの頃は、朝から夕方まで屋外では小学生の声が響き渡り、川沿いには自転車が並び賑わっていた。ゲームやSNSの普及による時代の変化は、地方も都会も変わりはない。今年の冬、帰省した際にはバス停に数人が並び、皆が手元のスマホを触っている光景を目にし「どこも同じだ。」と思いつつなぜか違和感を覚えた。

今の情勢を知り、時代に柔軟に対応していくことが求められる世の中ではあるが、それが義務ではなく、好奇心が原動力となる感性が自分には不足していることを知っている。バス停での違和感は、自分の乏しい感性によるものなのか、あるいは記憶に残る過去の風景によるものなのだろう。

6年生の娘にリコーダーを吹いてもらった。とても上手とは言えないが、素朴な音色がとても心地よく感じた。