「愛と寛容(3)」 (湘南あおぞら・倉重 達也)
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 私的な生活には愛を、公的生活には寛容の精神を説いたフォースタはこれらの徳と力との関係をどう考えたのだろう。

フォースタはこうした穏健で消極的な徳を推奨しながらも、愛情深くかつ寛容になろうとしていると、この不愉快な疑問がひょいと頭をもたげてくると告白している。社会の基盤は結局、「力」ではないか。

政府が警察なり軍隊(自衛隊)に依存しなければとても国を統治することはできまい。また、個人にしても頭を殴られたり、権力に強制されたりしたらどんな意見も無意味ではないかという。確かに最近のシリアの虐殺のニュースや誤認逮捕で十何年も逮捕監禁されたりしたニュースを聞くとそう思えるし、フォースタもそのことを否定していない。

 ただし、フォースタが楽観的なのは、力というものは長続きしないということ、さらに幸いなことには力のある者は愚かであり、人間の精神の素晴らしいところは、そうした風向きがいいうちにすばやく機会をとらえて暴力を封じ込めてしまう知恵を持っていることだという。

そしてこの力の休止期間をできるだけ長くし、そして頻繁に訪れるようにしなければならない、なぜなら、この休止期間中に偉大な創造的行為や真に人間らしい社会が生まれるからという。

フォースタが言う創造的行為とは「愛」であり「寛容の精神」であり、「自由」「誠実」「友情」「勇気」という人間が人間であることを証明するこれら美徳であり行為のことであろう。人類が人間らしく食べたり、働いたり愛したりして生き続けていくために、こうした意志を伴う美徳がないと人間も動物と同じ状態に堕してしまう。

 かくして、「愛」と「寛容」は暴力を眠らせ、支配権を握ることになる。そしてこの力の休止状態を「文明」と呼びたいと控え目ながらフォースタは説いている。

これもまた、ヒトラーのファシズムが現実的に脅威であった時の話である。

以上

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