五島列島への旅 ① (湘南セシリア・みらい社 植村  裕)

長崎県五島列島に妻と23日の旅行に行ってきた。五島には以前から行きたいと思っていたので、ようやく願いが実現した。五島列島は長崎港から西に100kmに位置し、大小あわせて140あまりの島々が連なる列島である。また、列島をおおきく二つに分け、福江島、久賀島、奈留島を下五島、若松島、中通島、それ以北を上五島と呼ぶ。

五島列島は歴史的には弥生時代などの遺跡が発見され、古くから大陸との交流の中継地として栄え、遣唐使や倭寇ともゆかりの深い地でもある。江戸時代にはキリシタンに対する本格的な弾圧が始まり、外海地区より逃れてきた多くのキリシタンが潜伏していた「祈りの地」と言われている。

早朝、羽田から飛行機で博多まで行き、飛行機を乗り継いで下五島の福江に着いた。旅行会社のツアーの集合時間まで3時間以上あったので、ツアーで行かない場所を回るようタクシーを手配しておいた。運転手さんは気さくな方で「お腹が空いたでしょう。」とお茶とさつま芋のふかしたものを用意してくれていた。さつま芋は甘味は少ないが、ホクホクして栗のようで美味しかった。運転手さんの自慢の一品は懐かしい味がした。そして彼の心遣いがうれしかった。

車は出発し、私たちはノアの方舟をイメージしたモダンな浦頭教会、海辺にたたずむ赤レンガのゴシック様式の堂崎天主堂、畑の脇の民家のような小さな宮原教会を訪れた。次のところに移るとき運転手さんが「どうでしょう。秘境にご案内しましょうか。」とコースになかった場所を提案してくれた。そこが半泊(はんどまり)であった。車が一台通るのがやっとの細い山道をかなりの時間走ると急に視界が開け、半泊の入り江が目前に見えると、そこに半泊教会があった。江戸時代のキリシタン弾圧から逃れるため長崎の大村藩から上陸した人々が、ここに住み着くには狭いので、半数だけがここにとどまり、残りの半数は他の地に向かったことから半泊と呼ばれるようになったという。そこには命がけで五島に渡り、人跡未踏の地を開拓し、人目を避け信仰を隠しながら暮らしてきた人々の壮絶な歴史があり、今もその祈りは続いている。半泊教会は現在3人の信徒の方で守られていて、偶然そのうちのお一人の方とお会いできた。たった3人で支えているという気負いは全くなく、淡々とご自分の使命を果たしている、という印象を受けた。

半泊を後にして、小高い丘に建つ白亜の水ノ浦教会、赤レンガ作りでアーチ状の天井とのステンドグラスが美しい楠原教会を回り、再び福江空港に戻った。そして貴重な体験をさせていただいた運転手さんに感謝してお別れした。

 ここから旅行会社のツアーとなるが、大型バスに参加者8名、添乗員、ガイド、運転手という、ちょっと贅沢な旅が始まる。バスは昼食後、鬼岳展望台に向かった。鬼岳は標高315mのおわん状の山で伊豆の大室山に似ていて、全面芝生におおわれている。福江の市街地や港を望むが、あいにく曇りで視界が悪く残念だった。続いて福江市内の散策に向かい、石田城址を見学した。江戸幕府最後の城であり、黒船の襲来に備えて築かれたそうだ。現在は石垣や大手門を残すのみだが、城壁の三方が海に面した国内でも珍しい海城跡である。場内の一角に城を模した五島観光歴史資料館があり五島の生い立ちから現在までの資料が展示されており、仏教文化、キリシタン信仰、遣唐使と倭寇などに関係する資料がある。特にキリシタンの「踏み絵」や信仰を隠すための「マリア観音像」や底に十字の刻まれた「キリシタン茶碗」がキリシタン迫害の歴史と信徒の信仰の深さを感じさせられた。また、石田城址近くの武家屋敷通りには古い石垣がある。石垣の上部には拳大の石が積まれており、敵が石垣を乗り越えようとすると崩れ、また敵に投げつけるために配されたという。なかなか興味深い話である。

続 く

              ▼半泊教会

半泊教会.jpg              ▼堂崎教会

 

堂崎教会.jpg              ▼鬼岳展望台からの眺望鬼岳展望台からの眺望.jpg              ▼武家屋敷石垣

武家屋敷石垣.jpg

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