"ケア"について

611日の朝刊に「障害者への虐待 施設で常態化~山口 元職員に暴行容疑」の見出しが躍った。山口県下関市の指定サービス事業所・大藤園(利用者数55名、支援員11名)で日常化した利用者への暴行が映像を証拠として摘発された。当該社会福祉法人は4日付けで職員を懲戒解雇した。数日後、インターネット上のニュースに「"陰部を切る"はさみで障害児を脅す 京都の施設職員、虐待疑い」とあった。京都府社会福祉事業団が運営する知的障害児施設(入所)で、50代の職員が入所児童にはさみを向けて傷つけようとしたと報道された。職員は、傷つけたことを否定し脅したことは曖昧に話した。2年前の千葉県・袖ヶ浦福祉センターの施設内暴行死事件が記憶に新しいにも関わらず、再び"施設内虐待"が発覚した。3件とも社会福祉法人が運営。しかも2件は都道府県設立の社会福祉事業団が運営。また、大藤園では、施設内からの告発があったにも関わらず、下関市は「立入調査」をしないまま放置した。

 日本には4種(子ども、高齢者、DV、障害者)の"虐待防止法"があるが、障害者虐待防止法は一番遅かった。障害者虐待防止法第2条第1号で障害者の定義、第2号で"養育者""障害者福祉施設従事者等""使用者"による障害者虐待をいうとしている。虐待する者に障害者福祉施設職員が含まれている。一般的には、社会福祉施設職員は"善良な人"のイメージが強いが、障害者虐待防止法では"虐待する可能性のある人"としている。障害者施設の職員がどうして虐待する可能性のある人として見られているか施設職員は承知しておかなければならない。

 かつて映画『ES』を見た。衝撃的だった。「スタンフォード監獄実験」を映画化したもの。大学構内に模擬刑務所を作り、無作為にアルバイトとして採用された人が、無作為に"看守"と"囚人"役に充てられる。暴力は否定されているが役割を全うするように指示された看守は、時間が経つにつれて立場の優位性に心揺さぶられ、言うことを聞かない囚人役に暴力的になる。映画では、最終的にレイプ事件、殺人事件が発生し実験は中止。人は自らの立場の"優位性"が高ければ高いほど、優位性を発揮して職務に忠実であると錯覚したまま暴力的になる。施設職員がその立場にいる。自分にはこのような"心"は潜んでいないと考えるのは傲慢である。一方、自らの立場の"優位性"が低いと思った人は、卑屈になり、従順になってひれ伏すようにその場を逃れようとする。どれだけ自分自身を確固たるものとして自覚していたとしても、このような行動にあらがうのは並大抵ではないと映画が教えていた。虐待を受けた人の多くが、"虐待されていた..."と主張できないという。そこには固着した"上下の人間関係"がある。それは"支配と服従の人間関係"。

翻って施設内を見渡すと、ルールだからと嫌がる利用者を追いやる姿は特別なこととは思えない。しかも、そのルールのほとんどが職員の手で作られたもの。長年勤務していると利用者のことが家族より判っていると思ってしまう傾向にも拍車がかかる。たとえば、幼い頃から関わりがある利用者の好みの食べ物は○○だと思っていると疑いもなくそれを提供する。しかし、年齢と共に趣味趣向は変わるもの。また、大人になろうとする時に頭ごなしに言われると誰でも反抗的になるもの。かつて、久しぶりの施設勤務になった赴任先で"たけちゃん!"と子どもの頃に一緒に居た利用者を呼んだら、若い職員から叱られた。"あだ名で呼ぶのは禁止です!"と。子どもの頃からの付き合いで昔からそう呼んでいると説明しても許してくれなかった。その時、私は課長、相手は2年目の職員。仕方なく"どうしてだめなの?"と聞いたら、"ご本人の意思が判らないからです!"ときっぱり。何となく嬉しさがこみ上げた。このような場では利用者との関係が"支配と服従の人間関係"ではなく、お互いの平行な関係を保つことができるから"優位性"を発揮して職務遂行をするような本末転倒は起きないと確信した。

哲学者・メイヤロフは、「ケアは"相互性"(『ケアの本質(ゆみる出版)』だ」という。教える側と教わる側、教師と生徒、上司と部下、親と子など数え上げればきりがないほど、上下関係が基本の人間関係がある。しかし施設内虐待で考えなければいけないのが"全制的施設"での特性。全制的施設とは24時間体制で共同生活をする施設を言い病院や全寮制の学校などを指すが、それ以外にも刑務所や軍隊などがあり、さらに社会福祉施設も範疇内。これらの施設では集団論理が支配し、上下関係が厳しくなり、個人の考えを押し殺す生活が続くため、施設で生活する人々は"思考停止に陥る"危険が指摘されている。つまり、主体的な生活が極めて困難な環境であるということ。他に、結城俊哉氏は『ケアのフォークロア(高菅出版、結城俊哉著)』の中で、ケアする側の健康度として、1「曖昧さ」に耐えることができるか、2「待つ」ことができるか、3「休憩(遊び時間)」がとれるか、4「余力」を残して関われるか、5「課題の優先度及び自己の限界」を見極めることができるか、6 生活問題の「多様性」を受容することができるか、7「身体感覚」を大切にすることができるかを挙げている。相互性を大切にすると、相手の動きを待つことも、客観化するための余力も、己を甘やかすのではなく出来ること出来ない事を見極める力も必要とするハイレベルな仕事であることを認識しなければならないと判る。今一度考え直したいものである。(2015.7

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