我が身をただす

気になる記事があった。『日本の高校生、「親への尊敬」低い?』の見出し。中見出しに『「友達関係」に近い』とあった。記事によると、米国では親を尊敬しているのは70.9%。これに"まあまあ..."を加えると92.2%に上る結果だった。だが、日本は"まあまあ"を入れても82.9%、韓国は87.6%とあった。 "親の期待にプレッシャーを感じるか"の問いはもっと顕著で日本の29.5%に対して米国、中国は60%を超え、韓国も50%程度。"将来、親の面倒を見るか"には、日本が37.9%に対して最高の中国は87.7%。一方で、"自分はダメな人間か"の問いにイエスとした人が日本は72.5%だったとあった。親や大人に対する敬意は見えず、自己肯定感が低い傾向が顕著な結果だった。

 "畏敬の念""畏怖の心"などと言う言葉は既に忘れ去られてしまったと思えるような出来事に出会った。駅まで30分ほどの路線バスの中で、ランドセルを背負った小学生が10人弱乗り合わせた。バスの中で一時も座らず走り回り、はしゃぎまわって周囲を気にすることもない。いよいよ腹が立って怒鳴る寸前「危ないから、どこかにつかまっていてください。」子どもに向った話し方だが、丁寧な物言いはお客さんへの配慮と思える運転手のアナウンス。これで少し治まるかと思ったが、どこ吹く風で我が物顔。会話の中に時折英語が混ざり、年長者はスマホでビデオを見ている。どう見ても地元の学校に通っている子ではないな...。3回もアナウンスしたが終点まで止むことはなかった。電車でも同じ子と乗り合わせた。電車の中でも我が物顔で動き回っていた。大人の注意を恐ろしいと思わない子どもが出てきた。子どもを叱ることのない親たちが増えてきた。それなのに小学校高学年になると成績表とにらめっこして、上がれば良い子、下がれば悪い子と評価されてしまう。自宅だけでなく学校でも同様。上下関係まで出来"教室内カースト"などと言われる社会が存在しているから、頂点でなければ自己肯定感を持つことが難しい。

 外出帰りにファミリーレストランで夕食となった。しばらくして、隣の席を見ると子ども3人で食事をしている。学校に上がったばかりと思われる一番下の子どもはダウン症。時折、奇声が上るが気にしていない...凄いな...。一つ向うの席には男女3人の中学生。同級生のようで食事が終わると数学を教え合っていた。親はどうしたんだろう...。勉強して来るとでも言ったんだろうか?それとも帰れない親から食事代を渡され外で食べているんだろうか...。夕食は親と一緒に食べるもの、暗くなったら帰ってくるものと言われて育った人間には理解不能。見渡せば大人はわずかで、子どもの方が多い。子どもたちには、ファミレスがリビング。だが、そこには"父"も"母"もいない。大人がいない。子どもだけなのでモラルはとても緩やか。これでは親を尊敬したり、親の面倒を見る考え方にはなれない...と思った。しかも、自分を出来ない人として卑下しているんだから...。

 かつて日本社会は"縦社会の人間関係"と言われた。子育てでは"親の言うことを聞くものだ"と言われた。それは明治初期に日本の東北地方を旅したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』にもある。江戸時代は荻生徂徠をはじめとして育児書が良く出版されたという歴史もある。"父への畏敬の念"は日本社会の子育ての中核にあった。だからそのような子育てに戻したいというのではない。そうではなく、子どもにも大人にも"畏怖""畏敬"の念が必要...と考えているだけだ。今どきなら"リスペクト"が近い言葉か...。恐ろしく近寄りがたいが、尊敬している。畏れながら...○○して欲しいと思う心とでも言うべきだろう。恐ろしいものには近寄りたくないものだが、恐ろしいのに親近感があって、怒らせるようなことはできない...と思う心が必要だと思うだけなのだ。子育ては子どもの意思を尊重しなければならない。それは子どものわがままを許すのではなく、子どもが社会的に成熟するように"育む心"。だから、大人として"社会的価値基準"を伝えなければならない。そのためには社会的価値を尊重した大人の生活を背中で見せる必要がある。そうでなければ大人や親に"畏怖・畏敬の念"など持つわけがない。

 こうなると"社会的価値基準"とは何かとなる。それはしてはいけないことを毅然として、してはいけないと言える己自身の暮らしぶりである。江戸時代の会津藩では"ならんものはならん!"と言う言葉が子育てに必須だったと聞く。してはいけないことをしてはいけないと言える力は、自らを正すことができるから言えるのであって、お友達では出来る訳がない。親子がお友達になれる訳もなく、なる必要もない。それが"親子関係"に必要なことだと考えている。翻って職場内人間関係ではどうだろうか...。お友達になる必要があるのか...。お友達でいる時と、そうではいけない時のメリハリはついているか。そして上司と部下の関係はどうか。かつての職場で"一つ上の立場で考えたらそんなこと言えるか!"と怒鳴られたことがある。それからいつも上司はどう考えるだろう...と考えるようにしてきた。上司の言いなりになるという事ではなく、相手の考えていることを斟酌して自分の考えを伝えるという事である。上司はどう見ているだろうか...と。畏怖・畏敬の念を抱かれる上司だろうか。どうしたらそんな人になれるか...いつも自分を振り返られる人でいたい。(2015.10

理事長日記2015年10月写真.JPG

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