おさ`んぽ~体験的福祉の歴史散歩~

 藤沢市内を鉄道沿いに1年かけて歩いた法人事業所めぐりも一通り終わった。次の"おさ'んぽ"は自分自身の足跡をたどってみたくなった。幾度となく"時代が変わった!""福祉イノベーション"と書いたので、イノベーションの足跡を体験的におさ'んぽしてみる。

高校時代、知的障害児施設にボランティアに行った。生徒会主催の活動だが、人は集まりにくかった。ボラ活動を終えた月曜日に担任に呼ばれた。「受験を控えた君が何をしている!」と怒られた。今では考えられない光景。"ボランティアなどやっている暇があるなら受験勉強しろ!"と。担任に社会福祉を専攻する旨話した時は「君、まだまだ法学部も経済学部も合格できる...」と説得された。ほぼ50年前の進路指導だ。学ぶのは私。将来の道筋を歩むのも私。友には某大学の法学部、経済学部、はては農学部まで10学科を受験した人がいた。今でも大学名が欲しいだけだとしか思えない。私は節操がないと思っていた。

たどり着いた大学で福祉を学び、社会福祉でなければならないと考え始めたのは"三大ドヤ(山谷、釜ヶ崎、寿)"のひとつ横浜寿町の子ども会のボランティア時代。"ドヤ"とは"ヤド"をひっくり返した隠語。日雇い労働者が日銭で泊まる"宿"を表わす。当時はコンピューターが機械を使って船荷を移動させるなど想像もつかない時代。だから下働きの労働者が必要だったが、その日の荷量によって人工<にんく>が異なる。そこで毎日、労働者を募集する"手配師"が"にこよん"と呼ばれる労働力を調達した。"にこよん"は"254"。日当254円だったことに由来する。この町は行政主導で作られた町。それまでは桜木町駅周辺にあったが、前の東京オリンピック開催前に好ましくない景観とされ強制移転。ここに無戸籍児童がいた。港湾労働は履歴書を必要としないから、我が身を隠して暮す人がいた。殺伐とした景色は今の寿町とは全く異なる。そんな中、学校に行けない子がいて、「寿生活館」を中心に就籍に取り組んだ。普段はプロテスタント教会で勉強半分、遊び半分の活動だった。今で言えば子ども食堂か。

 街が発展するために必要な労働力を景観が悪いからと隅に置き、そこに暮す子どもたちが就学できなくてもスルー。間違いなくそこに暮す人々の問題だけではなく社会問題。大学で「社会問題」の講義は受けたが、ここでは実にリアルで、社会福祉の必要性を実感した。その頃からずっと臨床の場でその都度学んだ。しかし、当時のことゆえ学生運動の荒波の中、継続は望めなかった。寄付金を集めて行った道志川キャンプの満天の星が忘れられない。その後、児相勤務の時に行方不明の両親探しで寿町を訪ねた。面談は夫婦が暮す3畳一間。言葉が続かず子どもが望む帰宅は"夢のまた夢"。この時代、法制度に障害児者の通所施設はなかった。(2017.4-②)

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