ケアの"臨界"

 辞書によると「さかい。境界。特に原子炉で核分裂が持続的に進行し始める境目」。"臨界"が使われ始めたのは原子力発電・もんじゅの事故から。臨界点に達しエネルギーを生むが、超えると事故、事件を引き起こす。ここから"境目"を表す言葉として使われ始めた。有益な動きと事件・事故の境目は原子力発電所に限らず重要なポイント。だから最近は"臨界"が様々に使われる。例えば、人と人の距離は近すぎたり、遠すぎたりするだけでトラブルになるが、人によって許容する距離が違う。だから時々"臨界点"を確認する必要がある。これは"ケアの臨界"と言えそうだ。対人援助の難しさはこの"ケアの臨界"の見極めにある。関係が親密であればあるほど、距離が近くなるのは恋愛感情のプロセスで判る。関係が深くなれば身体接触が増える。別れ話があるのに手をつないでいたら??? 人との距離は感情によって近くなったり遠くなったりするので、一律に"ケアの臨界"を示せない。

先日、民生委員の研修会で発達障害について話した。終了後2つの質問が飛び出した。一つ目は、バス停で並んでいる人を押しのけて乗ってしまう自閉的な人。始発だから誰もが座れるが、ルールを守らないことに怒っている。だが、地域住民は寛容に見守っていただいている。そこが地域住民と彼の"臨界"。許容量があることに感謝だ。二つ目は、教室で勝手に動きだすADHD。他児童のこともあり大変困っているようだが、困り感が強く子ども自身の"心"が見えにくい。視点を変えると"ケアの臨界点"が先生に寄りすぎていると見える。難しいがその都度"境目"が違う。人の感情が影響するのだからその都度違うのは当然。ケアの臨界を探すのはとても難しい。

施設でのケアも随分変わった。時代と共にトレンドが変わる。療育技法も異なる。一つ目の違いは、"集団から個へ"。個別対応はさかのぼると、やりたかったができなかった時代を経て少しずつ変化した。良い傾向だと思っていたが、先日個別化することで"孤立化"する現象を見た。つまりひとりぼっちでさみしいし、相談する人もいない。だからと言って集団生活が良いわけではない。だからどう孤立を防ぐかが課題になる。もう一つは"強制から受容へ"。規則でがんじがらめの時代が去り、ひとり1人の障害特性や性格に添う対応はかつて見ることができなかった寛容な姿勢である。すばらしいと思う。だが、不安になる。なぜなら、すべてを受け入れるとその利用者はどこで我慢するのだろう...。どうしたらいいかを考える間もなく受け入れられたらそれは幸せか...。本当は許されないことを伝える必要がある...。相手を受け入れることと許容してはいけないことの臨界点はどこにあるのか...。バス停で列を無視する人はどこでどう話せばいいか...。ケアの臨界点は本当に難しい。(2017.11

ページトップへ