"それぞれのMy Life"

 (福)藤沢育成会は誰もが当たり前に街で暮らすことを目標にし、法人のロゴマークに「インクルージョン藤沢」とある。法人ホームページには「それぞれのMy Life」とあり、街で暮らす人々が紹介されている。インクルージョンを日本語にすると"包摂化"と言うが、何を意味しているかさっぱり判らない。包摂を辞書で調べると"包み込む"とあるが、何をどう包み込むか良く判らない。例えば餃子の皮で包み込むのは、肉や野菜を刻んだ具。食べ物の話ではなく、皮が"社会"で、具が"人々"。皮もいろいろで、厚いと肉汁が出にくいが味わう時に皮が邪魔する。だが、薄すぎると破けやすく素人には御しがたい。最近は自宅で料理をしなくなったという話でもない。このように人々を包み込む"社会"にもいろいろあるということ。餃子なら製作者の好みで作り、食べる側は好みを選べばよいが、社会ともなると生まれた社会から脱して好みの社会に...とは出来難い。だから、多数決なんて考え方が生れる。だけど、人間社会は難しいもので、多くの人たちの意見を集約することも難しければ、万人が安心できる仕組みを作ることも極めて難しい。

 インクルージョンの前にノーマライゼーション、インテグレーションが話題になった時代があった。私が初めてノーマライゼーションを聞いた時は"ノーマリゼーション"だった。デンマーク人のバンク・ミケルセンが世界に発信した言葉だから、はじめて日本に伝わった時は当然デンマーク語。それがノーマリゼーション。その後、アメリカを経由して日本に再上陸したときはすっかり英語の発音になって"ノーマライゼーション"だった。日本語にすると"常態化"。包摂化と同じで何が何だか分からない。そこでノーマライゼーションはノーマライゼーションと言われた。ノーマライゼーションは"正な、状に、変させる"と理解すると判りやすい。当り前の暮らしを求めてやまない障害者の暮らし向きを当り前にするという考え方は、障害者だけでなくすべての人が当り前に暮らすことを求めていると考え「社会福祉の哲学」とされた。インテグレーションは"統合教育"と訳されたが、ノーマライゼーションの具体化だと言われていた。

 当り前に暮らす...。言葉にするのは簡単だがなかなか難しい。あちら立てればこちら立たず...が多すぎてどれが本物か判らなくなる。だから、本当は多様なのだということだと思う。多様な暮らしがあるのが当たり前で、それを受け入れる社会がノーマルなのだ。だから(福)藤沢育成会を表すもう一つの言葉"それぞれのMy Life"がある。ひとり一人みんな違っていいということ。だからそれぞれ違う暮しを包摂(包み込む)した社会。わかったようでわかりにくいが、これがインクルージョンだと思う。(2018.5

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