"それぞれのMy Life"と平等性の担保

 前回、それぞれのMy Lifeを目指すのがインクルージョン藤沢と書いた。1人ひとりが自分らしく暮らすことはとても大切で、自己決定支援とつながる。"自分らしい"とは、自分の考え方にふさわしく暮らしていることだから、自分で決めなければ出来ない。かつて、障害者の世界大会で当事者発言が際立った。それは"私たちに危険を冒す自由を下さい!"。多くの人が経験する"冒険"。それは"初めてのお使い"であり、失恋のリスクを承知した告白。こんなことは誰もが経験する社会生活上のリスク。考えてみれば、長いこと一緒に暮し、何が何でも守ってくれる親を捨てて結婚するなんて冒険はリスクのかたまり...。いや、これとて多くの人がする冒険。それゆえ人生は楽しくもあり、苦しくもある。そう考えると"私たちに危険を冒す自由を下さい!"という主張は実にノーマル。当り前の暮らしにこれが入るのは極めて当然。それが"それぞれのMy Life "。

 しかし、それぞれのMy Lifeはどこまで許されるか...悩ましい。なぜなら、社会にはみんなが暮らしているから、自己主張のみで自分のやりたいことだけだと社会が成り立たない。一番前の席に座りたいから並ぶ人を押しのけて乗車する。こんなことはいけないと判っているが、自閉的傾向のある人のこだわりだったらどう考えれば良いのか...。障害者だから許すのか...。通勤時間にバスを待っていると、後から来た視覚障害者が先頭に立った。その方は最後尾が判らずそうしたのか、それとも障害者だから優先されると考えているか判らなかった。暫くすると同僚が来て最後尾に誘導した。翌日は同僚がおらず最前列のままでいたら、先頭の方が"どうぞ"と声をかけた。あ~ぁ、受け入れられているのだと思った。自閉症も障害者と認識されているが、だからといってすべて許される訳ではなく、許される時と許されない時がある。だから答えは一つにはなり得ない。そんなこと障害者には判らないじゃないか...という人もいるが、そうだろうか。

 それぞれのマイライフを主張する私たちは、何を目的にしなければならないかをしっかり考え直すべきだ。施設内など与えられた場所で療育担当は社会生活に必要なルールをどこまで伝えているか考え込んでしまう。障害ゆえに出来ないことがあるのは判るが、障害を理由に出来ないままで良しとすると、あえて言えば障害がある人の学習のチャンスを奪っていないか...とか、最初から出来ないとすると彼らの能力を否定していないか...など、複雑な思いが重くのしかかる。同じ人間だと主張し同じ町で暮らしたいと思うのは当たり前だが本当に難しい。周囲の人が最善の努力をして、障害者はすべて許される社会を望んでいるのではない。地域で暮らす仲間になるとは、これらを考えた上のサービスが必要。大変難しいが、彼らに判るように社会ルールを伝えそれに基づいた支援をしないと、社会からは身勝手な主張をしているだけに見えるのではないかと危惧している。2018.6

ページトップへ