「神は乗り越えられない試練を与えないか~再びシモーヌ・ヴェイユ~」 (湘南あおぞら・倉重 達也)

倉重 第11回写真.jpgのサムネール画像

 秋は行事が多い季節で天気がいつも気になる。「験(げん)を担ぐ」と言うが、私も験を担いでネクタイを変えたり、歩く場所を変えたりすることがある。そんなことで晴れてくれるならこんなにありがたいことはない。人は何か良き印というか信ずるための拠り所が欲しくなるものらしい。

 天気の話で済むなら良いが、友達から深刻な問題で相談を受けるときがある。本人あるいは家族の病気、それも不死の病の場合などは相談を受けた私も困り果てて、最後には慰めの言葉となるかどうかも確証がないままに「神様は乗り越えらえない試練を与えないと言うから大丈夫だよ」と言ったりする。

これは信ずるに足る言葉なのだろうか。それとも験を担ぐのと同じようなおまじないのようなものなのだろうか。こうした思いは相談された内容の重さに圧倒されて深く考えもせずに長年放置しておいたもののひとつである。

 昔、自分も同じようなことを言われ、この言葉によって慰められたし、一筋の希望の光のようなものを与えられた。しかし、慰められたことと、この言葉が真理かどうかは別な問題である。 

 そんなとき、シモーヌ・ヴェイユの次の一文が目に入ってきた。「神は苦しみや不幸を試練として送るのではない。神は<必然>がそれらを独自のメカニズムにしたがって分配することを許した。」(「みすず書房カイエ39ページ)

 

苦しみや試練は神様の試練とは関係ない?

なんと力強い言葉ではないか!

これを読んでから、つまらない験を担ぐことを止めにした。そしてそうと決めたら何か心が晴れ晴れとした。

しかし、これからも困ったことで相談を受けたら、相も変わらず「神様は乗り越えられない試練は与えないらしい」と言うことだろう。

 

以上

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