「第19回アランの幸福論~労働~(5)」(湘南あおぞら・倉重 達也)

人の一生の中で労働の占める割合は高い。

アランは幸福論の中で、自由な労働ならもっとも良いものであり、奴隷的なものならもっとも悪い、と言っている。

その最高度に自由な職業の例として指物師をあげている。指物師とは家具職人のようなものだろうが、自由な職業だという理由として、指物師は自分固有の知識と経験に従って働き、その人自身によって労働が規制されているからだという。そして、有益な労働はそれ自身が楽しみなのであり、それが楽しみだとわかるのは労働そのものからであってそこから引き出される利益によってではないともいっている。

前日の仕事の中に自分自身の意思の刻印を認める人こそ幸福である。それには躊躇しないで、まず何であれ着手すること。刺繍の最初の幾針かは楽しくない。しかし、一針一針と進むにつれて、そのこと自体が計画し、意欲し、行動するという楽しみを加速度的に増すようになる。

それとは反対に最悪な労働は親方が邪魔をしたり中断しにくる労働であり、最も不幸な人間は庖丁を使っている時に床の掃除を言いつけられたりする人間だといっている。

アランがこれを書いたのは1922年、日本で言えば大正の終わり頃である。その頃は日本でも農業や職人などの個人事業主が多かった時代である。しかし、現代のように資本主義が発達してくると個人事業主は少なくなり、自由業と言われる人々は特権的なものになって、圧倒的大多数のサラリーマンは労働自体に価値と目的を見出ししにくくなってくる。そんな訳で我々サラリーマンは収入と休みのことだけを考える傾向が強くなってきて労働そのものに喜びが見出しにくくなってきている。

このような時代と制度の違いで、今ではアランの考えを辿るのは難しくなってきたし、古びた考えのようにも見られる。しかし、そこに見られるのは、いつでもアランが繰り返して強調している、人間なら誰でも持っている徳、人への服従を潔しとしない独立自尊な気高い高邁な精神の尊重なのである。

そこを超えれば、と言うのは時代や制度という限定されたものではなく人間と言う普遍的なものに立ち戻ってと言う意味だが、もう一度労働の喜びが見直される時が来るかも知れない。

誰でも与えられた獲物は満足しないらしい。

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